グリーフ・ケア研究報告
〜文献と葬儀施行体験による〜
公益社 千里営業所
山 村 宗 央
|
|
| |
|
|
|
第一章 背景 |
 |
日本における「グリーフ・ケア」は、その根底となる感情研究の遅れからほとんど実質を得ない状況にあるといえる。アメリカでは死の教育に関して精神医学と社会学の両面からの発言が多いのに対し、日本では社会科学者の発言というものはほとんどない。
悲嘆や悲哀の研究が進んでいない第1の理由は、「感情」という心の働きを心理学者が軽視してきたことにあるといわれる。認知心理学が重視してきたのは、まず知覚や学習や記憶といった「知」であり、感情そのものは「気分(ムード)」として人間の行動様式を決定付けるに至らないとされてきた。「知」を優先し「情」を軽視する研究風土が長期間あり、いわば感情研究が手つかずの状態にあったのである。
第2に、悲嘆感情の測定は、他の感情に比べ非常に困難であるということである。悲嘆の感情は、変化が激しく、主観的性質を有するため、研究の対象としたときに本来の性質を失いがちである。現代心理学は実験室実験と意識調査を測定材料としてきたが、とりわけ悲嘆感情においては観察者の客観性を欠く。
第3に「悲嘆回避」の本能が人間にはあり、日常において悲嘆を避けたいという姿勢が根底にあるということである。また時代背景として、とりわけ「死」はタブー視されてきたことはいうまでもない。
上記の理由から日本の悲嘆研究の遅れは現実としてあるといえる。さらに日本の心理学はアメリカで行われた研究を模倣し、基盤としている。とりわけ「死」に関する事柄に、宗教的・文化的背景が特に大きく影響を与えるとするならば、宗教・文化のまったく異なる国の研究がいかに発達していても、それをうのみにすることが果たして正しい方向性をもたらすのであろうか。日本における宗教観、文化に根ざした独自の研究の必要性を感じずにはいられない。 |
|
|
第二章 目的 |
 |
この報告においては、グリーフ・ケアとその概要についての定義を文献研究にて行い、死亡〜葬儀終了までの遺族の心の変化を葬儀現場における実体験をもとにして記した。最終的な目的は、日本独自の葬儀形態がグリーフ・ケア先進諸国とどのように異なり、またそれがいかに遺族の悲嘆処理に影響を与えるのかを考察し、日本の文化・宗教に根ざしたグリーフ・ケアを確立する第一歩の指針となることである。
また葬儀社として、今後多様化していくであろう死・葬儀の捉え方に適応し、新たに担わなければならない役割を自覚・発達させる指針ともなり得ると考える。 |
|
|
第三章 「グリーフ・ケア」の定義 |
 |
グリーフ・ケア自体を明確に定義したものが見当たらず、われわれが思うように「死を体験することによって発生する悲しみに対してのケア」だけではなく、そのケアの範囲はかなり広がりをもつ。(下記;悲嘆と悲哀の定義 参照)
従って、われわれ葬儀社が担うであろう役割を踏まえた定義を、様々な文献から以下のように考察した。 |
| 「愛の対象喪失によってもたらされたグリーフ(悲嘆)が引き起こす様々な変化から、遺族が正常な日常生活を取り戻す過程をサポートすること」 |
| ※ |
「愛の対象」と一言でいっても様々な要素が含まれ、死の他には身体的喪失、失恋、離婚、移住、転職、退職などがある。ここでは、近親者の死についてのことをいう。 |
|
|
|
|
1.悲嘆と悲哀の定義 |
| 現在の臨床心理学の分野では、悲嘆(grief)と悲哀(mourning)はそれぞれ次のように定義されている。
悲嘆(grief)とは「喪失に伴う独特の共有出来ない感情および喪失の際に感じる非常に多くの組み合わせ」(小島、1988)とされ、悲哀(mourning)とは『愛の対象喪失によって起こる一連の心理過程で経験される落胆や絶望の情緒体験』(Bowlby,1960)とされている。それぞれ異なって定義はされているものの、「悲嘆」と「悲哀」は交換可能な用語として位置づけられている。
しかし、死に対する悲嘆には対象が「死」を迎えるよりも前(生前)の状態も含まれるが、悲哀は喪失後の反応であり、また「悲嘆は症状ないし反応である」に対し「悲哀は喪失体験後の心理過程」であるという相違がみられる。
集約するとどちらの用語を用いても何ら問題は生じないであろうが、われわれ葬儀社が関わるケースとしては、時間軸で考えた場合圧倒的に「悲哀」を目の当たりにしてきているように思う。ただ、「生前」の時間軸も含む「悲嘆」についても重要課題であることは確かである。
喪失を予期した場合には「予期悲嘆(anticipatory grief)」が生じ、実際に喪失以前に喪失に伴う悲嘆が開始し、喪失に対する心の準備がなされ、その悲嘆が現実になったとき喪失体験後の回復が比較的速い、という研究結果(Caplan,1963)もある。
このことから、葬儀社に事前に相談に来る人の中には予期悲嘆の最中にある人もいるということを強く再認識する必要がある。
|
|
|
2.悲しみの処理 |
われわれが遺族と対面するとき、その人がどのような心理状態にあるかを判断することは非常に困難である。そしてその心理状態は、研究者たちが分類してきたようなきれいな段階に分かれることはまれであり、分類され得たとしてもその順序が入り乱れることは多々ある。しかしながら、分類された感情にあてはまる行動を起こしている人をみることも事実である。つまり、われわれが日々遭遇する場面には、明らかにある種の傾向があるといえる。
下記では悲しみから立ち直るまでの大まかな概要を説明する。
「悲嘆ないし悲哀から立ち直るためには『悲哀の仕事』(mourning work)を行わなければならない」(Freud,1917)
悲哀の仕事とは、対象喪失から起こる様々な心理的、身体的変化を元の状態に戻すためのプロセスに他ならない。具体的には、1.対象喪失の受容 2.対象に向けられたリビドーの解放(対象に対する記憶や期待を徐々に消去する作業)があり、この作業を通じて最終的に「立ち直る」わけであるが、これらの作業が成就するためにはクライアント側の立ち直ろうという明確な意志に基づいた積極的な行動が不可欠であるようだ。
またフロイトの「悲哀の仕事」は愛する者を失った場合はもちろんのこと、愛する者に代わる抽象的な事柄(祖国、自由、理想など)を喪失する場合も含まれることに対し、小此木は、死別による対象喪失から立ち直る過程に限定して、それを「喪の仕事」とよんだ。(1981)
上記を踏まえると、われわれが今まで聞きなれた「グリーフ」には、悲嘆の対象が主観的に存在すれば悲嘆(grief)は発生する、というひどく曖昧な意味合いがある。
われわれ葬儀社が今までとこれからも大いに関わりをもつであろう分野を、遺族の対象喪失後の心と生活の回復に定めるとし、その行動を「モーニング・ワーク・サポート(喪の仕事の補助)」とすることを提案する。
|
|
|
第四章 モーニング(悲哀)4段階説 ― Bowlby,1961 |
| |
| 英国の精神分析学者ボウルビーは対象喪失、とりわけ死に関して引き起こされる悲哀が4つの段階をたどることを明らかにした。まず最初、例えば近親者を失ったときに成人がどう反応するかを観察すると、数週間から数ヶ月の間に一連の段階をたどるが、そこには一般的な順序が一応認められる。 |
 |
 |
情緒危機の段階 |
「一般に数時間〜1週間持続する無感覚の段階で、さらに、次第に強烈な苦悩や怒りの爆発を引き起こすことがある。これは一種の心的ストレス反応であって急性に起こり、情緒危機とも呼ばれる。激しい衝撃を受けて、興奮したり、どうしていいかわからないようなパニックになったり、無力感でいっぱいになったりする。」
このような第一段階の情緒危機は、眼前の外的な状況に対する適応能力を著しく低下させる。一般に不幸があった場合には、この段階は、近親者や友人などがパニックに陥らないよう対象喪失の当事者(遺族)を助けたり支えたりするのが常である。 |
|
 |
 |
抗議―保持の段階 |
「失った人物を思慕し、探し求めることが数ヶ月、ときには数年も続くことがある。この段階では愛着の対象からの分離、つまり不在に対して不安が起こり、子供の場合であれば、母親が帰ってくるのを期待し、母親を探し求めるなど種々の試みが行われる。またそれは、失った対象を取り戻そうとしたり、保持し続けようとする保持の段階でもある。この段階で失った人をもう一度思い出したり、彫像を描いたり、また、自分が本当に相手を失うという現実を直視することが出来ないで、眼前の事実を否認する心理も働く。」
この段階では、愛する対象がもはや眼前にいなくなっているのに、心の中では相手に対する思いがまだ続いている段階なので、周りの人から見ると、眼前のことに対して心は虚ろになり、もっぱら目前の不在の対象に対して心が向いている状態である。 |
|
 |
 |
断念―絶望の段階 |
「相手が本当に永久に戻ってこない、という断念による本格的な対象喪失が体験される。それは悲嘆のような主観的な情緒体験を引き起こす。それまで失った対象との結合によって成立していた心のあり方が解体し、激しい絶望と失意が襲う。もっとひどくなると、引きこもり、抑うつの状態、無気力の状態に落ち込んでしまう。」
この段階は絶望と抑うつの段階である。この段階に陥ったときは、ただ情緒的、心理的なレベルだけでなく、生物学的な生命力の低下が引き起こされ、ときには種々の病気を誘発することがある。最近では、がんの発症のひとつの契機として、精神神経免疫学の見地から解明が行われている。 |
|
 |
 |
離脱―再建の段階 |
| 「それまで愛着、執着していた対象から心が本当に離れ、自由になり、場合によれば別の対象に気持ちを向けることが出来るようになる。また、そこから自分の立ち直りや再建の努力が始まる。つまり、それまでの対象に対する愛着をあきらめ、新たな対象の発見とそれとの結合に基づく新しい心のあり方を見出そうとする。」 |
|
 |
以上のモーニングの各段階にはそれぞれ特有な情緒が結びついているが、これらの各段階は必ずしも明確に区別出来るものではない。むしろ各段階が相互に重なり合い、漸進的に現れたり、消失したり、何回も同じ段階をたどったり、一定の段階にとどまって、そこから先にモーニングの過程が進まないということも起こり得る。
ボウルビーのこのモーニングの4つの段階に関する研究は、現在でも臨床的な医療心理学の領域に引き継がれ応用されている。 |
|
|
第五章 葬儀の現場における悲嘆状況 |
 |
実際の葬儀の流れにおける悲嘆を
 |
死亡退院〜安置 |
 |
打ち合わせ(葬儀請負)〜通夜 |
 |
告別式〜骨安置 |
という主に我々葬儀社が悲嘆にたずさわる時間別に考察する。
また遺族のタイプを
| ・ |
『道徳型』 |
| ・ |
『期成型』 |
| ・ |
『事前準備型』 |
| ・ |
『事前準備型』 |
| ・ |
『核家族型』 |
| ・ |
『情緒危機型』 |
| ・ |
『パニック型』 |
の6タイプに分類し記した。
| ※ |
便宜上6タイプに分類をしたが、状況によってタイプがかわることもある。 |
|
 |
 |
死亡退院〜安置 |
現在、死亡者の8割以上が病院で亡くなるが、病院側は死亡後なるべく早く(処置の時間を含め平均3時間以内が多い)退院することを望む。遺族は死に直面しながらもその要求に従わざるを得ず、病院で悲嘆に暮れている時間がないのが現状である。すなわち、我々が遺族とファーストコンタクトを取ることが最も多い病院内においては、急死・事故等の突発的な場合を除き、情緒危機に陥る余裕さえない状態が多いのである。
ここで死亡退院の際に遭遇する状況をタイプ・ケースごとに分類し、遺族の悲嘆状況を考察する。
・病院退院時の反応
『道徳型』―担当医師・看護婦に丁重にお礼を述べるケース
故人または遺族が特別な社会的地位にあり、病院から処置・待遇の面で優遇されていたか、もしくは長期入院によって病院内の人間関係が深まっていたかのどちらかのケースが多い。病院内の人間関係が深まるためには、故人・遺族の人柄がよく、故人を支える者が治療に真剣に取り組む必要がある。真剣にあらゆる手段を用い治療に専念した場合「やれることは全てした」という達成感があるため、対象者の死の受容は比較的早い。また、葬儀の際の葬儀社側の提案(例えば故人が喜ぶであろうことを葬儀に取り入れることなど)にはかなり前向きな反応が窺える。
『情緒危機型』―あっさりと退院するケース
医師や看護婦に対し、感謝している様子もなく退院する場合、不道徳なタイプを除くと、ほとんどが情緒不安定であることが多い。入院期間が短く、対象者の突然の死に対し、なにも準備が出来ていないことによる不安、あるいは対象者の死を実感出来ていない状態、放心・無感覚等で表現され得る。
このような放心・虚脱の状態は『死の否認〜怒り』といったプロセスを経た後とされることが多い。しかしながら、病院で死亡宣告を受け、死亡処置〜死亡退院まで平均約3時間〜4時間の間、我々が立ち会うことは皆無に等しいのではっきりしたことは分からないが、一般に言われる死の否認〜怒りといったプロセスをその短時間で得られたとは考え難い。前述したが、感情の表現の相違、あるいは死亡退院時におけるグリーフケア先進諸国とのシステムの相違、グリーフケア先進諸国とは異なる文化的背景、宗教概念の相違などがあり、プロセスの経過に影響していると推察する。
・死亡退院後の安置先
『事前準備型』―死亡退院後、自宅へ搬送
この場合、故人の入院生活が長い、もしくは故人が遺言をしてあった、また入院中に自宅へ帰りたい等の意思表示をはっきりしていたことが多い。(または自宅に帰ること以外の知識がない場合もある)両者とも故人の遺志を尊重した行為であると捉えることが出来、対象者の死に対してあらかじめ何かしらの事前準備がなされていると推察することが出来る。また、自宅に到着すると故人を安置する布団があらかじめ用意されていたり、部屋が片付いていたりすることもある。このような場合は、後の打ち合わせ等もスムーズに行くことが多い(決定が早い)が、だからといって悲嘆に暮れていないというわけではない。逆に長期にわたる予期悲嘆から引き起こされる様々な不安の真只中にいる可能性もある。
『核家族型』―死亡退院後、葬儀会館霊安室へ搬送
この場合、事前に会館に安置するという情報をどこからか得ているか、親族(故人と直接の血縁にあり葬儀の核となる人)が遠方に住み、故人は一人暮らしであった場合が多い。(一人暮らしであれば、家は小さく故人以外の人が入り込む余地がない等の理由)
事前に対象者に対する準備をするということは、相手に対する思いを具体的にセレモニーに反映させるための準備よりも、残されたものがその時に慌てないための金銭的・物理的・あるいは時間的な準備であることが多い。
また、故人と関係の深い人(例えば長男)が故人と別居していた期間が長ければ長いほど、故人が亡くなるまでに、「自分にはもっとすべきことがあったのでは」等の故人に対して後ろめたい思考に陥る傾向がある。
・自宅にて死亡・その他
『期成型』―故人の遺志を尊重、自宅での死亡を選んだケース
自宅で死を迎える割合は全体の死亡者数の27%に過ぎず(厚生省発表 朝日新聞掲載 1992年3月23日付)、そのうち自然死のみに限定すると、割合はさらに減少する。そして、そのほとんどが「最後は自宅で死を迎えたい」という意思による。もっと言えば死ぬために病院から自宅へ帰ってきたのである。
このような状況下においては、遺族はかなりの長期にわたり時間的・精神的な拘束を強いられてきた場合が多い。例えば、危篤状態になったと聞けば何よりも駆けつけることを優先したり、様態が気がかりで外出を控えたりなど、ある一定の期間は故人を中心としたライフスタイルになっていたであろうことが考えられる。そしてこの故人を中心としたライフスタイルこそが、後の悲嘆を和らげる役割を担っていると推察する。こうした期間を共に過ごしたことにより、亡くなってから故人に対してある種の期成感が働き、また生前の故人の要望を汲み取る機会も多いので、葬儀の際は明確な要求が出来る。(また拘束から解き放たれた解放感も手伝い、かなり早い時期に故人の死から離脱・再建が可能)
『パニック型』―自然死以外
また上記の例と対称にあるのが、自然死以外の場合である。事故・自殺・他殺など医師の診断なしで亡くなる場合は、警察による検死・解剖が必要となり、故人の死を受け入れるどころか死因さえも把握が出来ない状況である。また、遺体の損傷が激しい場合は、死を受け入れるよりも、それが対象者本人であるかを認知することに時間が掛かる。我々がコンタクトを取る段階では、公的な手続きと急死であるために遺族が集まりにくいことにより、死亡退院や自宅死亡と比較してかなりの時間が経過している場合が多い。(最長は司法解剖が日祝日をはさんだ場合で3日程)
コンタクトを取る段階では、遺族はかなり疲弊していることが多く、また情緒はかなり不安定である。「葬儀を行うための打ち合わせ」にもかかわらず、何のために話をしているのか分からなくなったり、急に怒りを訴えたりもする。このような状況では、情緒危機に陥っている遺族を他の比較的落ち着いている遺族にまかせたり、一度時間をあけて状況を把握する時間をつくることが多い。事故、遺書がある場合等により、亡くなった原因が明確な時には、遺族は被害者的意識が強く、時間を置くことにより死を受容しようとする姿勢が窺えることがあるが、自殺した原因が定かでない場合には、近しい遺族ほど加害者的意識が強く、死を受容出来たとしてもかなりの長期にわたり自責の念に苛まれる傾向にある。
|
|
 |
 |
葬儀請負(打ち合わせ)〜通夜終了 |
上記のような一連の流れが落ち着くと、葬儀の打ち合わせをする段階になる。日時・場所を決めることから、祭壇をどのようなものにするかということ、また参列に来た人への対応の仕方に至るまで、打ち合わせ項目は多岐にわたる。しかし重要なのは、様々な選択肢から決定をしてもらう行為ではなく、葬儀という媒体を通じた遺族と葬儀担当者の人間的なコミュニケーションに他ならない。このコミュニケーションがうまく機能すると、後の遺族の悲嘆を和らげる鍵となり得ると考える。
このコミュニケーションの発端となるのが請負(打ち合わせ)である。営利を目的とした企業としての「営業活動」と、遺族との「血の通ったコミュニケーション」の始まりである。業務体系として、請負担当者と葬儀担当者が異なる場合もあるが、ここでは請負担当者と葬儀担当者が同一であるケースについてのみ述べる。
・『道徳型』・『期成型』の場合
両型の共通点として挙げられるのが、我々は故人に対し最善を尽くしたという「期成感」と故人の遺志・欲求に対する情報量の多さである。生前中の「何とかしてあげたい」という願望はそのまま葬儀に持ち越されることが多く、形を変えて葬儀にそれを反映させる必要がある。そのために打ち合わせにおいては、故人の人となり、趣味趣向、生活様式、仕事など事細かな情報を収集する必要がある。
両型における思考の根底には「故人のため」という意識が存在するため、世間体や体裁といったものに気を使う場合は少ない。
また『道徳型』は感情表現において、他のタイプよりある程度オープンである場合が多く、通夜前の空き時間の際、棺に向かって故人に話しかけたり、弔問・参列に来た人に祭壇や故人の顔を見てもらうよう積極的に勧めたりする。『期成型』においては、故人が喜ぶであろうことを行うために家族が協力し合い、知恵を出し合っている光景を見ることが多い。このような行動は、死を受容しこれからの生活において前向きな思考を心掛けている表れであると推察する。また、さらに精神的な余裕が出てくると、通夜終了後落ち着いたころに「大変な仕事ですね」といった具合に、我々に対してより進行したコミュニケーションを取ってくる傾向にある。
・『事前準備型』・『核家族型』の場合
『事前準備型』は前述にもあったように、金銭的な面での準備に重点をおいている場合が多い。従って打ち合わせのポイントは「慌てさせない」という点におかれる。また、決定権も葬儀の核となる人に一任されている場合が多く、他の家族に意見を求めたり話し合いをすることが少ない。
また『核家族型』については、『事前準備型』のように一任形式であり、なおかつ近親者に葬儀についてのアドバイザーがいないため、決定すらもこちらに委ねてしまうこともある。前述にもあるように、『核家族型』の中には故人に対して後ろめたさを秘めている人が多いが、打ち合わせにおけるコミュニケーションの取り方によっては、後ろめたさを媒体とし「最後ぐらいは自分で精一杯故人のことを考えよう」と『道徳型』になったりすることもある。しかし両型の根本的な思考として、最終的に葬儀が滞りなく終了してくれればよいという部分があり、前述したコミュニケーションをとる必要はあまりないと判断している人が多い。
通夜終了時に見られるケースとしては、「夜伽をしない」というのが両型の特徴としてある。夜伽とは、通夜すなわち「夜を通して」寝ずに線香・蝋燭が絶えないよう見守るという風習である。会館で葬儀を施行した場合夜伽が可能なように宿泊施設を完備しているので、宿泊施設の説明をする際に「泊まらなければならないのか」「帰ってはいけないのか」等の質問を受けることがある。その際は夜伽の趣旨を説明し、なるべくなら泊まったほうが故人も喜ぶのではないかということを付け加えるが、それでも泊まらずに自宅や故人の家に帰ったりすることもある。推察するに、夜伽とは日本特有の悲嘆処理方法であると捉えることが出来る。通夜の式場というのは、非日常的な特殊な空間である。日常生活と遮断された空間といってもよい。その空間において、故人の亡骸と徹夜という行為をもって対峙するということは、モーニング・ワークの「死の受容」という観点からすると必要不可欠な行為であるように思う。
・『情緒危機型』・『パニック型』の場合
情緒が不安定な状態での打ち合わせ作業は非常に困難を極めるが、不思議とこのときだけはどんなに悲嘆に打ちひしがれていても正気に戻るケースもある。正気に戻って真剣に話をするか、もしくは全く話が出来ないかのどちらかである。
また、情緒が安定していないと判断した場合次のことに注意をしている。
・絶対に慌てたり急かしたりしない
・話を真剣に聞く、もしくは話をしやすい雰囲気をつくる
・決定の際には選択肢をつくってあげる
・「故人」と呼ばず名前で呼ぶ
つまり、ポイントは「味方」と判断されるかどうかである。我々の話はすべてにおいて金銭の絡むことである。以前に「人が悲しんでるのに金の話ばかりしやがって」と罵声を浴びたことがあり、我々の立場というのは初めからマイナスイメージであるということを深く自覚したことがある。最も悲嘆にくれている人の視点に立つことが重要である。
また『情緒危機型』は『パニック型』と比較し、状況を把握する能力は残っているので、多少時間がかかるが故人中心の考え方に移行することもできる。しかし『パニック型』は死を受け入れられるまで相当長い時間が掛かり、告別式が終わってもなお数日から数週間・数年という歳月が必要になる場合もある。このような際にはコミュニケーション云々という次元ではなく、葬儀は内容よりも死を受け入れるひとつの要素という意味合いが強くなる。例えば、自殺の場合においてよく見受けられるのは、故人の死因を隠すというものがある。これは故人の死因が世間に知れ渡ることにより、遺族が社会的な不利を被ると判断された場合に取られる手段である。このような行動は「死の受容」という観点から見ると、故人がなぜ・どうして自殺を図ったのか、その故人の死を受け自分はどのような状態にあるのか、故人の死により自分は今後どう変わっていくのかという葬儀後の段階をもすべて止めるもしくは遅らせる原因になり得る。
日本の葬儀に関連する賞賛の概念として「気丈」というものがある。社会的立場や特殊な生活環境を考慮すると、気丈に振舞わなければならない人も確かにいるであろうが、そのような人には人目につかぬよう悲嘆を吐き出させるようなコミュニケーションを取ることの必要性を感じる。
|
|
 |
 |
告別式〜骨安置 |
現在日本における火葬の割合は9割を超える。「火葬を悲嘆・悲哀対象物が目の前から無くなり、物理的な死を体感すること」と捉えると、「死の受容」という観点からみれば火葬は情緒変化に大きく影響を与える。この告別式〜骨上げという期間は最も情緒変化が表れる期間でもある。正式には告別式とは葬儀式・告別式とに分かれ、葬儀式においては寺院のもとに故人が釈迦の弟子になるための儀式が執り行われ、その後に告別式という形式をもって近親者、参列者が故人との別れをするというものである。しかし日常的に信仰心を持つ人が少ない昨今において、告別式とは故人との別れ・火葬であるとの捉えられ方が強い。
告別式の場合、悲嘆処理の観点において最もメインとなるのが最後の「お別れ」の場である。前述にもあるように、このお別れの後には出棺・火葬という形で故人が「形」を失い、具体的な悲嘆の対象が「骨」に変わる。死亡から出棺までの悲嘆は、生前の「動く」状態から「動かない」状態への変化とその現実に対するものであり(第1次悲嘆とする)、亡骸から遺骨へと変化を遂げたことに対する新たな悲嘆が芽生える(第2次悲嘆)。つまり故人の亡骸を見て「今にも起きてきそうだ」という期待は、火葬というものを通じて断絶されるのである。
以下においては、各タイプ別の告別式〜火葬〜骨上げ、そして最終的なコミュニケーションの場でもある骨安置(遺骨を祭る場所まで同行すること)までを記す。
・『道徳型』・『期成型』の場合
最後のお別れの際、ある種の演出が必要となる。それは上記にあるような「最後」を実感し、死をなるべく早く受容してもらうために他ならない。この両型については、比較的早い段階で死の受容をしている場合が多いのでその趣旨は受け入れられやすい。故人にかける言葉としては、「いい所に行ってね」「むこうでまた会おうね」といった故人を長期にわたって想う姿勢が表れる。
また『道徳型』については、例えば遺族に小さな子供がいたりすると、その子供にしっかりと故人の顔を見せようとしたり、故人がこれからどのような「旅」をするのかを話したりしているのを見かける。いずれも死の受容〜死の克服という前向きな思考があってはじめて行う行為である。
式次がすべて終わり骨安置に自宅へ帰った際にも、「桜が好きだったから春ごろ納骨しよう」とか「好きなあの山にお骨を少し持っていってあげよう」など終始「故人のため」という姿勢は変わらない。また無事に終わった安堵感から、かなり砕けたコミュニケーションを望んでくる場合も多い。
・『事前準備型』・『核家族型』の場合
『事前準備型』は取り乱したり、情緒的になることは少ないが、「最後」という言葉には反応を示す場合がある。また葬儀の核となる人が年齢的に若い場合には、感情を表に出すことを嫌い、死亡からずっと平静を装ったままの人もいる。そのような人にとって、最後の別れに際し感情を表に出すことは、後の悲嘆処理において大きく影響を与えると考えられる。また『核家族型』においては、故人にかける言葉として「ごめんな」「がんばるから」といった、故人に対しての後悔を垣間見ることが多い。
この両型においては近親者にアドバイザーとなる高齢者がいない場合が多いため葬儀後の取り決めについては、ほとんど決定していない場合が多い。
・『情緒危機型』・『パニック型』の場合
両型の場合、告別式を迎えるころになると死亡告知からの度重なる情緒変化に心身ともに疲弊しきっていることが多い。ひどい場合には告別式の本来の意味はさておき、ただ葬儀という空間から解放されることを望む。しかし、一般的には死亡告知〜告別式までの時間の中で、状況を把握し、今何のために自分がここに居るのかは理解しているケースの方が多い。安置時、通夜時に親族以外の心の通った友人に会う回数が多ければ多いほど、状況を把握しようという意思が芽生えるようである。
最後のお別れの際、棺にもたれかかり崩れ落ちるような光景を目の当たりにするのも、この両型である。泣き崩れるのは女性のほうが多いが、立ち直りも早い(出棺後の食事に全く手をつけない、あるいはその場からいなくなるのは男性の方が多い)。推察するに、ただ女性が精神的に強いというよりも、男性は泣き崩れたり大声で泣いたりという「悲嘆表現」をしないため、悲嘆処理の過程が進行しにくいのではないだろうか。
|
|
|
|
第六章 今後の指針とまとめ |
 |
今回の報告においては、宗教的背景とりわけ寺院の役割については論じてこなかった。宗教の役割のひとつとして、来世観を明確に伝えることにより死に対する不安や恐怖を緩和させるというものが挙げられる。課題として、このような寺院の役割がどのように悲嘆処理に影響を与えるのかを考察する。例えば逮夜参り(死後七日ごとに読経を施す)の習慣から、寺院は七日ごとの遺族の様子や悲嘆の状況を見ることが出来、満中陰までの四十九日間という長期にわたり遺族と関係が続く。このことから、そこで行う説法により死を受け入れる準備や、悲嘆が緩和されることがあり得ると考える。すなわち、まさにこれこそが日本という宗教・文化に根ざしたグリーフ・ケアといえるのではないだろうか。
しかしながら、宗教離れがますます顕著になりつつある昨今、菩提寺・檀那寺がないということで葬儀社から寺院の紹介を受け、その寺院には初七日までの読経をお願いし、それ以降は省略するという人が増えている。この背景には、宗教心の薄い国民的気質と核家族化によって失われた「死」に関するアドバイザーの減少が窺える。これからはますます無宗教形式の葬儀が増えてくるであろう。
このような傾向から考えるのは、我々葬儀社が寺院の役割(悲嘆処理において)やアドバイザーの立場を遺族から要求されつつあるということである。宗教心すらも放棄し、無宗教形式の葬儀を選択するということは、宗教的な意味合いから発達した悲嘆処理の方法が新たに必要ということではないだろうか。
我々が遺族と心の通ったコミュニケーションを取れるのは、ほとんどの場合死亡から葬儀が終わるまでの数日間である。本当の意味でのグリーフ・ケアを考慮するならば、葬儀後の生活におけるケアの方が重要である。第五章で述べた実際の現場における悲嘆状況に記載したものは、単なる観察ではない。我々が主に関わる僅かな時間の中で、いかに早く遺族の悲嘆状況を把握し、「誠意」を伝えるための指標である。人は、他人とのコミュニケーションの中で「心からの誠意」に触れた時、その瞬間ではなくとも、後にその心に呼応する「何か」を感じるものではなかろうか。この「何か」によって勇気づけられたり、元気づけられることが悲嘆処理に役立つと考える。 |
|
|
〈参考文献〉
松井 豊 1997 『悲嘆の心理』−悲嘆研究の現状と今後− サイエンス社
小此木啓吾 1997 『対象喪失とモーニング・ワーク』 サイエンス社
高橋雅延 1996 『悲しみの認知心理学』−気分と記憶の関係− サイエンス社
小此木啓吾 1991 『対象喪失と悲哀の仕事』 NHKブックス
野村 昭 1987 『社会と文化の心理学』 北大路書房
A・デーケン、柳田邦男 1997 『突然の死とグリーフケア』 春秋社
山崎章郎 1990 『病院で死ぬということ』 主婦の友社
岡本伸也 2001 『慮る力』 ダイアモンド社 |
|
|