与論島葬祭研究2004


公益社
エンバーミングセンター
宇 屋 貴


 目 次
序 論  
第一章 与論島とは  
 
1−1 位置・気候
1−2 人口
第二章 葬儀式の方法
 
1−1 臨終
2−1 一般的な葬儀
2−2 仏式風神葬祭
2−3 儀式の内容
2−4 納棺後の出棺
2−5 葬儀費用の支払い
3−1 法要
第三章 埋葬方法
 
1−1 風葬
2−1 風葬から土葬へ
2−2 葬儀当日の土葬
2−3 改葬(洗骨)
3−1 土葬から火葬へ
4−1 新しい火葬場(昇龍苑)の概要
4−2 火葬受付
4−3 出棺後
4−4 火葬温度
5−1 疱瘡墓
5−2 樹上葬
<まとめ>  


  序 論  与論島はまさにその瞬間

 日本のみならず、世界中で土葬から火葬への移行が推進されている。日本の火葬率は98パーセントを超えるほどになっている。全国市町村、どこに住んでいても車で1時間圏内に火葬場があるといっても過言ではない。
 そうした世の中の流れの中で、平成15年10月6日に鹿児島県の与論島では、島で初めての火葬場がオープンした。土葬主流から火葬主流へと変わるまさにその瞬間を取材した。
 一つの文化が異なる文化に変化するのに60年かかると言われる。親・子・孫の世代が60年で入れ替わるという考え方である。そう考えると、与論島の火葬場建設計画が出て30年経って火葬場ができた現在は、その折り返し地点といえるだろう。この考え方は一見安直にみえるが、取材をしていくにつれ、その考えがただの推測ではないことがわかった。

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  第一章 与論島とは

  1−1 位置・気候

 与論島は、北緯27度2分40秒・東経128度25分2秒に位置し、周囲23.65km、面積20.49の鹿児島県の島である。周辺の海は青く透き通り、あたり一面砂浜が広がっている。

※与論島の風景

 気候は温暖で、私が現地に行った1月10日も上着は要らず、昼間は半袖で歩けるほどであった。年間平均気温は、22℃〜24℃。年間降水量は、約1,650mm。

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  1−2 人口

 与論島の総人口は、6,043人(平成15年12月)。そのうち65歳以上の人とそうでない人との割合及び男女比は以下の通りである。

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  第二章 葬儀式の方法

  1−1 臨終

 病院で危篤状態になったり、余命宣告を受けた患者は、一旦自宅にもどって最期を迎える。というのも、亡くなった場所にその人の魂が宿る、といういわれがあるからだ。遺体安置室(霊安室)が無い病院が多い。交通事故や不慮の災難によって死亡した場合は、神官が死亡現場に出向き、そこで「大祓い」を行い、魂をヒモロギ(位牌)に移す。その後自宅に霊を呼び迎える。
 その夜は、「伽」といって、親戚や近所の人々が集まって、夜通し見守る。「伽」をするのは、病人の霊魂が悪霊に、誘い出されないようにするためである。病人の枕元には、魔除けとして刃物やバンジョウガニ(曲尺)を置くこともある。これには、次のような言い伝えがある。「伽」をする人が、夜中うたた寝をしていると、病人の枕元に3〜4人の男が現れ「(棺桶に)今のうちに入れろ、早く入れろ」といったので、慌てて塩でもって追い払った、というものである。刃物は刃を外に向ける。バンジョウガニを置くのは、大工の棟梁は尊敬されており、まつりごとも司っていたので、大工道具は魔除けになると信じられていたからである。夜通し見守っている間に、心拍が停止しそうになったり呼吸が停止しそうになると、皆が一斉に大声で名前を呼ぶ。これを、ユビコイ(呼び声)と呼ぶ。そうすると、時として生き返ることがあるという。息を引き取ると、死者を起こして座らせ、大声で泣きながら数名の者が死者の名前を呼ぶ。生き返らないと分ったら「ウプガミヌミジドー」といって茶碗に水を入れて、近親者が逆手で持って水を飲ませ、元のように寝かせる。このウプガミヌミジという語は、「大きな瓶の水」ということであり、水が乏しく貴重な時代に、水をたっぷりと飲んでもらおうとの名残りからであろう。末期の水である。

 水にお湯を入れ、ぬるま湯をつくり、近親者の男一人が体を支え、女二人で湯あみをさせる。掛けるときは、柄杓を逆さ手に持ち三度湯をかけ、あとは普通にかけながら浄める。鬚〔ひげ〕をそるのも始めは下より上へ逆に剃る。手足の爪や髪を切って白紙に包んでおき、後で棺の中に入れる。女性の場合は薄化粧を施す。

 沐浴が終わったら、表座敷に畳を一枚敷き、その上に、新しい筵〔むしろ〕を逆さ(織り始めの処を足下にする)に敷く。筵は中程の糸を数個所切っておく。その上に、頭を表に向けて、沐浴をさせた三人で仰向けに寝かせる。北枕にすると伝わるが、家の建て方にもより必ずしも北枕にはこだわらず、頭を庭側に向けている。キヌ(白い衣)を着せ、前を糸で縫いとめ白い帯をさせる。左を上に両手を組ませ胸に置き、両膝を揃えて立てる。鼻や耳などに白布で栓をする。顔は新しい手拭いで覆う。そして最後に生前愛用の晴れ着を掛けておく。

 故人は白い着物(グショウキパダ)を着るのが一般的である。それは多くの場合、親戚の女性の手によって糸尻を留めずに縫われたものを使う。今では、平時に自分自身で用意したり、親が年老いたら嫁が用意したりしている。男にはキヌとサナギ(メーチュウとも言う。褌〔ふんどし〕)を女には白衣とカハン(腰巻)を着させる。手甲・脚袢は無く、足袋のみを着け、わらじは納棺する。わらじには鼻緒を付けない。襟の背側には、御霊が通れるように切り込みを入れる。故人の体には、7枚程のタオルを添える。それらを体全体に巻きつけることもあれば、頭だけ少し覆うこともあり使用方法はさまざまである。

 死者の周囲に屏風または蚊帳を張る。先祖の霊前には幕を張り、幕には家族の晴れ着を打ち掛けて置く。

 枕元に小机を設えて、花(ガジマルの小枝一本)、水、酒を供え、線香(蝋燭)を点す。また生前に愛好していた物などを供える。

 故人の食事は、白飯、汁、酒、小皿一枚に味噌と塩を盛る(酢の物を盛るところもある)。ご飯には箸を立てる。あるいは半紙を対角線上で折って山型にして茶碗の縁に巻くところもある。箸を立てるのは、精霊がこの箸を通って現世に影現し食事を共にするという意味である。

 弔問の人は、線香を立て、地域によっては盃に酒を注いだりしてお参りをする。

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  2−1 一般的な葬儀

 亡くなった日を1日目とすると、2日目に通夜、3日目に葬式という日程が多い。しかし、近親者が島外や海外にいて対面が困難な場合は、ドライアイス処置を遺体に施し、日延べすることもある。ドライアイスは普段は常備しているわけではなく、地元のジュース店が島外から取り寄せることが多い。
 関西では、友引の葬儀は避けられる傾向にあるが、与論町は特に決まりはなく「喪主の意向」が最優先される。友引でも葬儀を出すのは、遺体を長時間安置しておくには、不都合な環境下にあるからという側面もある。
 葬儀は一定のしきたりがある。しかし、最近は簡素化と合理化の一途をたどっている。昔から神官を呼んでの葬儀が行われたが、最近では神官を呼ばすに身内で祝詞等を唱えて葬送する家庭も増えている。

※祝詞には与論独特の方言が混じる。産土乃大神に帰属しているようだ・・・。

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  2−2 仏式風神葬祭

 葬儀は、簡単にいうと「仏式風神式」である。神鏡(位牌)を安置して、時花、線香、ご飯、水、茶湯等を供えて柏手を打って礼拝する。
 我が国では仏教伝来(538年)以来、神仏習合の思想のもとで神と仏とは互いに交わり密接な関係を保ってきた。ところが明治政府の神仏分離の政策により、廃仏毀釈という社会現象を生み、政治に利用されて一部の狂信的な人々によって寺院が破壊された時期があった。与論島でも、明治6年に沖永良部島より神官が来島して、寺を破壊し仏像仏具を砕き、島内の仏壇や位牌を一か所に集めて焼却した。徹底的に習俗から仏教色を排そうとして、その際に位牌の代わりに神鏡を「今後はこれを位牌として祭るように」と手渡した。
 しかし、これによって従来の仏式様から神式様に一変された訳ではなく、既に当時(明治8年)より戒名が授けられており、島民は神鏡に先祖の御霊を宿して従来の祭り方をした。
 ここに、香を焚き、時花を供え神鏡を位牌として拝するという、仏式神式混合の様式が生まれることになる。神鏡を「イペ−」(位牌)といい、神官を「ボウジ」(坊主)と呼ぶ。さらに「チュナヌカ」(初七日、死後十日目の祭り)、「トウカナヌカ」(十日毎の祭りはいままで七日毎に行っていた祭りに相当するということ)等の言葉も残っている。

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  2−3 儀式の内容
【通夜】 夏は19:00、冬場は18:00開始が多い。約1時間を要する。通夜は神官なしで行われることが多い。
通夜が終わると、特に通夜振る舞いはない。缶ジュースに簡単なお菓子を口に入れる程度。夜中、近親者は交代で起きて夜伽をし、故人とともにいる。線香は絶やさない。
【告別式】  
(例)
 
12:00 昼食
13:00〜 会葬者訪問 約700人が詰め掛ける
14:00〜 親戚もしくは親しい友人のみで式辞進行
15:00 出棺

【式次第】
 
司会挨拶
一同礼
修祓
献饌
大祓
帰幽奉上
遷霊
遷霊祭詞
納柩
納柩のりと
葬場祭詞
玉串拝礼
弔電
喪主挨拶
発柩祭詞
徹饌
司会挨拶
一同礼
※故人名には「〜命」と表記することが多い




※祭壇飾りは奇数で合わせ盛りが基本。

 使われる玉串は、大阪では榊が用いられるが、与論では榊が生息せず入手が困難なため、ガジュマルで代用されることが多い。
※ガジュマル
 町役場の新生活運動の影響で、香典は一律1000円が一般的。ただし、親族はその限りではない。会葬礼状なし。供養品なし。香典返しなし。お神酒を持ち込むのは親戚のみのことが多い。華美なもてなしは避けられる。
 神官へのお礼は1万円〜3万円が相場。いくら高くても10万円が上限のようだ。
 現在は火葬場の時間枠が、12:00〜もしくは15:00〜となっているので、それに合わせて出棺時間が決められることが多くなった。昔は潮の満ち干きを気にして出棺時間を調整していた。

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  2−4 納棺後の出棺

 納棺は式中にする。タオルで口・鼻・両目・両耳を堅く縛り、男性4人で筵のまま入れる。縛るときは、女性の場合は真上で縛り、男性は真上を左に少しずらして縛る。これには、男性はあの世に行ってからも働かなければならない、という言い伝えからきている。納棺品は昭和20年代前後から、酒を2合瓶2本。1本はあの世で出迎えてくれる親族や友人用。1本は先祖へのお土産用。しかし、火葬する際は、それらを事前に柩から取り除いておくことが必要になる。最近では、献花を千切って入れることも多いが、火葬した骨が着色されることがあるので、入れすぎには注意を要している。昔は納棺時、故人の足を立てて爪を切って畳を2枚重ねてその上で行うという習慣があった地域もある。
 出棺時提灯を持つ者が先導し、3人の池掘り人(墓を掘る人)、4人の担ぎ人、位牌を持つ人、親族、会葬者と続く。位牌を持つ人は元来後継者と考えられていた。ただし、今はハイエース等での出棺が多いので、なかなか前記のようにはできない。昔は、墓地までの葬送行列の道は決められていた。それを、「ひとおいみち」だとか「後生道」と呼ばれた。
 式後、墓のそばで食事をとる地域もある。
 家での骨安置には、非常に抵抗がある人が多い。

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  2−5 葬儀費用の支払い

 葬儀代金の支払い過程が興味深い。施主は、親族の最も信頼できる者に、葬儀にかかるであろうと思われる費用を事前に預け、発注や管理をその者に任せる。葬式が終わると、帳面と領収書を持って施主のもとに行き、お金を返す。そのとき、「使い果たしましたよ!」という言葉をかける、という習わしがある。実際には、残金があるのだが、必ずそういう言葉をかけるのだそうだ。そこには、「2度とこの(人の死に関することで使う)ようなお金の使い方をしませんように。」という願いが込められている。

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  3−1 法要

 葬儀後の法要は、3日まつり・10日まつり・20日まつり・30日まつり・40日まつり・50日まつり・100日まつりと呼ばれ、近親者だけで営まれる。そのうち10日まつりと30日まつりは100名くらいもの親戚が集まることがあるという。

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  第三章 埋葬方法

  1−1 風葬

 風葬は、古事記や日本書紀などでも登場する日本古来の葬法である。明治初期までは、与論島でも一般的であった。遺体を人目につかない岩場の風葬墓に3〜6年安置して白骨化してから洗骨をしていた。洗骨した後、風葬墓の一番奥に頭蓋骨を納め、入り口付近にそれ以外の骨を瓶に納めて置く。
 風葬は、岩の洞穴付近に4つ平らな石を置き、その上に柩を載せる。柩は筵などで包み、雨露を凌げるようにフバ(蒲葵)の葉を二重か三重に覆い、縦横上下を棕櫚縄で縛る。そして、柩の周囲を30cmほどの高さに石を積む。
 風葬の時、葬送中、九本旗・七本旗・五本旗を掲げた。旗の数が多くなればなるほど社会的地位の高い家柄ということを示していたようだ。

道を歩いていると突然このような道が現れ、森のなかへ導かれる。その先に、風葬墓がある。
※風葬墓は人目につきにくい岩場にある


※風葬墓の中には先祖代々の遺骨が積まれている
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  2−1 風葬から土葬へ

 風葬から埋葬への移行を必要としたのは、衛生上の問題が大きい。近辺には死臭が立ち込めることも少なくなかった。

明治11年 風葬⇒埋葬 県から命令
明治35年 風葬⇒埋葬 県警から強制命令
昭和30年 この頃が風葬の最後
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  2−2 葬儀当日の土葬

 火葬場ができてからは、火葬した遺骨を骨壷に入れてそれを「納骨堂」に埋蔵(埋葬ではない)するのが一般的である。ここでいう「納骨堂」とは、墓埋法でいうところの納骨堂ではなく、各家の墓石の下に設けた遺骨安置用のスペースのことをいう。
 しかしながら最近までは、土葬が多く、葬儀の当日は、出棺時刻の2時間〜3時間前に比較的遠い親族もしくは近隣の男性3〜5名が墓場に出向き故人のための穴を掘る。その穴を掘る人を「池掘り人」という。池掘り人は、あらかじめその土地の地神とご先祖に礼をつくし、酒を地面に吸わせる。ここで、池掘り人も互いに酒を交わすことが多い。それが単なる契機付けか何かのならわしかは、今となっては謎である。その後、穴を掘り、故人が来るのを待つ。やがて葬列が見え出すと、懸命にワラに火をつけ墓場の位置を知らせて御霊(みたま)を迎える。このとき、池掘り人は故人に対して「あなたの安まるところはここですよ。」と念じたりする。
 埋葬する際、棺に竹の筒(なかにはプラスティック製のパイプで代用しているものも見受けられる)を一本垂直に差し込み、棺内と地上の間に空気の通り道をつくる。これは、故人が埋葬後も魂が「遊び」に行くためだとか、故人に息をしやすくするためという言い伝えによるものである。砂ですっぽり埋められると、竹筒を中心にして、その上に「龕〔がん〕」と呼ばれる「家」のような形をした木製の小屋が被せられる。その中には、位牌、お神酒やタバコなどのお供え物が置かれ、周りには故人が生前使っていた靴や衣類、杖や荷車といった愛用品が置かれる。

※土葬墓

 土葬場所(墓地)は砂地である。埋めやすく掘り返しやすいからだという。
 49日までは、亡くなった人も早く腐るように「がんばる」と考えられている。
 一家の墓地範囲は2間四方くらいのスペースしかない。一人の改葬が終わるまでに一家の他の者が亡くなった場合は考える必要がある。2人以上を並べて埋葬するのが厭われる傾向があり、一般的には一人目を改葬(洗骨)してから2人目を埋葬する。無理したら2人目までは並べることが可能で、そうしている家もある。しかし、どちらにしろ3人目が亡くなった時は、まだ白骨化していない遺体を掘り返すかもしくは火葬するかしなければならない。現在は火葬場ができて、火葬も容易になったが、一昔前は島外に運ばなければならなかった。
 2人目が亡くなったときに、「どうか3人目が出ませんように。」という祈りをこめて、身代わりとしてわら人形を2人目の棺にいれることがあるらしい。かつては、鶏を殺して箱に入れて柩の側に一緒に埋めた。また、2人目以降の死亡で、どうしても土葬しなければならない場合は、葬式の朝早く人目につかないような時間帯に墓に行き骨を掘り返しておいて、何事もなかったように葬式に参列する必要があるので、そうなれば親族の心身の負担は計り知れない。

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  2−3 改葬(洗骨)

 与論島の墓は海周辺の砂地にある。それは、景観の良さもさることながら、墓は「掘りやすく、埋めやすい」のが必要条件だからである。
 改葬とは、故人の骨を男性が掘り起こし、女性が洗って骨甕に納めることである。基本的には全身の骨を納める。
 改葬(洗骨)は、故人を埋葬した後3年〜5年経って行われる。長いものは10年経ってから改葬される場合もある。改葬できる日は旧暦の3月27・29日もしくは8月27・29日(現在の8月)に限られる。改葬のタイミングは、墓の龕〔がん〕が地中に埋もれる度合いを目安にすることもあるようだ。棺と遺体は、腐敗していき、その上の砂面は徐々に下がって行く。それに伴って、龕〔がん〕が砂に埋もれていく様子が容易にわかる。
 また、近親者に妊娠している者・病気をしている者・厄年の者・近々結婚を控えている者・新築中の者がいる場合は避けられる傾向がある。さらに、暦をみて、例えば「辰」の日には「辰」生まれの人は行かない、ということもある。

年月が経つと、「龕(がん)」は地中に埋もれる

 改葬の前日には通夜のような儀式があり、親戚が集まる。
 当日は朝6:00くらいから改葬を始める。20年前以前は、人目を忍んで夜中や早朝にしていたという。天候に関わらず、黒い傘をさしながら進めていた。今はテントなどをたてたりして、親戚が集まってどちらかというと和気藹々とした感じで和やかに進行する。その最中はずっと、故人への声かけを忘れない。
 改葬骨(洗骨)はグロテスクだと、町の人は口をそろえていう。49日が過ぎれば、全ての関節が外れるという考え方があるようだが、3〜5年経って掘り返すと、骨は真茶色で、肉片がところどころに残っていることもあるらしい。それらを、竹の箆等を使って取り外す。このとき決して鎌や刀などのような鋭利なものは使わない。
 頭から掘りだす。頭を掘り出すのは、喪主格の近親者の役目。続いて親戚の男性が全ての骨を掘り出し、女性が水とキッチンタオルのようなもので洗う。少し残っている副葬品や棺は灯油をかけて焼かれる。遺骨は、1メートル弱の高さの「イリジ」と呼ばれる骨甕に足から順番に入れていく。頭蓋骨の上には、タオルを何枚か入れ、その上に白衣(キヌ)を置く。骨甕の蓋は紐で固く縛られる。骨甕は先祖のものよりも下座に、上部を出した状態で埋められる。
 最近は火葬場ができて、掘り出した骨が焼かれ、骨甕や骨壷に納められることもある。

 改葬をすることを「タマにする」、という表現を使う人もいる。玉(喜びの象徴)とか魂から来ているようだが、実際は定かではない。沖縄や奄美の葬送儀礼で、当初風葬や埋葬をしておいて、ある期間の年月を経過して、遺骨を取り出して拭いたり洗ったりして、浄めてから改めて納め直すことを、「改葬」もしくは「洗骨」と呼んでいる。一般的に沖縄では「洗骨」といい、奄美では「改葬」という。ところが与論島では同じ行事を「ヲゥガン」と言い習わす。「ヲゥガン」とは「拝する」ことである。「改葬」は葬法を表し、「洗骨」は行為に関して使われている言葉である。それに対して「ヲゥガン」というのは、精神に重きを置いて使われている言葉である。そこで、「ヲゥガン」は先祖崇拝の理念の具現された行為であり、遺骨を故人の霊体とみなして、身近に接し拝することである。そして「洗骨」は、ヲゥガンの為の前方便である。このことから与論島の先人達は、近隣の島々よりも、先祖に対する追慕の念が厚く、また、日頃の生活の中でも、常に先祖と身近に関わりあっていたことを物語る。

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  3−1 土葬から火葬へ

 昭和48年11月、与論町役場によって全世帯へのアンケートが行われた。
 内容は「火葬場について」である。結果は以下のとおりである。

 約30年前からも、火葬場の利用を求める人が多かったことが伺える。しかしながら、何故30年間火葬場が建てられなかったのか。それは、「火葬場は欲しいけど、自分の家の近所には建てて欲しくない」という住民感情があったからである。最近できた火葬場近辺にも、約10世帯の民家がある。そういった住民感情は少なからずあったに違いないだろうが、比較的協力的だったという。
 以前は火葬を望む者は、沖永良部島へ飛行機もしくは船で遺体を運んでいたという。つい最近まで「島外での火葬」は頻繁に行われていた。

●与論島の土葬と火葬件数の推移●


 
※平成15年の火葬は23件で、うち5件が島内の火葬場で行われた。
(「改葬骨」とは、洗骨時に焼骨されたお骨のこと)

●与論の火葬率の推移●

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  4−1 新しい火葬場(昇龍苑)の概要

※昇龍苑(火葬場)

 敷地面積7,351、建物面積509.43の鉄筋コンクリート造平屋1部2階の構造。火葬炉は1基あり、渦流火導孔式を採用している。煙は外部には出ない。遺体を焼くときに出てきた煙をもう一度燃焼させ、ダイオキシンの放出も防いでいる。
 炉前ホール・待合室・ホール・事務室・作業室・収骨室・残灰処理室・発電機室・倉庫・給湯室・トイレ(男・女・身障者用)が完備されている。総事業費は218,680千円。
 納棺には、通常7枚のタオルが添えられたり、故人に巻きつけられたりするが、火葬場では、燃焼効果を妨げないように、できるだけ1枚だけにしてもらうように呼びかけている。
 また棺のサイズは通常縦180cm・横90cmくらいのものが一般的だが、役所では幅55cm以下・長さ200cm以下・高さ55cm以下・重量20kg以下、また副葬品は5kg以下であることが義務付けられている。また、遺骨に影響が出たり、炉を傷めたりするのを防ぐため、以下のものが禁止されている。ガラス・陶器・プラスティック・金属製品・棺に付属のもの以外の毛布と布団・ドライアイス・スプレー缶・缶類・本・その他の燃えにくいもの。
 係員への心づけも固く禁止されている。
 1日に焼ける遺体の数は、3体が限界である。ただし、改葬骨(洗骨)はその限りではない。同じ家の改葬骨であれば、同じ炉で並べて焼くこともある。
 火葬が行われるのは原則的に12時〜と15時〜。火葬時間は約1時間30分。正味火を入れているのは1時間前後で、10分あまりで冷却を行う。その間、親族は火葬場内の14畳の和室で待つ。給湯室もあり、親族が自らお茶を入れられるようになっている。
 骨が上がると、火葬場職員は骨をできるだけ人体の骨の並び通りに並べ替え、収骨室(拾骨室)で遺族とともに骨を骨壷に納める。骨壷のサイズは、4寸〜8寸が一般的。そのサイズでは、全ての骨と灰を拾うことはかなわないが、洗骨で全ての骨を拾うことになれてきた町民の中には「灰の一粒たりとも残らず骨壷に入れてあげたい」と考えるものも少なくない。火葬場では、拾いきれなかった骨は、同敷地内に設けられた「霊灰塔」で安置・供養される。
 
※「霊灰塔」

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  4−2 火葬受付

 火葬場の予約は、与論町役場町民生活課で受付される。島内の利用者については死亡届時に火葬許可申請及び火葬場使用申請をする。火葬場使用許可申請書のフォームで、他地域と異なるのは、書き込まれる故人氏名の欄が7人分もあるということだ。つまり、異なる人を複数同時に焼くケースがあるということだ。これは、改葬骨を焼くためである。

 【火葬料金】(円)
  死亡者が町内住民 死亡者が町外の者
 大人(13歳以上) 20,000 25,000
 小人(13歳未満)
10,000
15,000
 1歳未満 6,000 9,000
 死産児 5,000 8,000
 改葬骨・改葬済骨 10,000 15,000
 人体の一部および胎盤 5,000 8,000
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  4−3 出棺後

 出棺後、故人と遺族が火葬場に入場してくると、火葬場職員が所定の位置まで故人を運び、神官(喪主がやってもよい)が「火葬祝詞」をあげ線香を炊く。ここにも、神仏習合の名残が垣間見える。2礼2拍手1礼の後、喪主もしくはそれに準ずる者が火葬炉の「点火ボタン」を押す。ゴーッという音とともに、火は瞬く間に螺旋状に棺を囲い込む。
 
※点火ボタンを押すのは、喪主

 火葬場ができた当初は、葬式後、幾百人もの会葬者全員が火葬場におしかけたことがあった。町では、火葬場へ来る参列者はなるべく30人くらいまでにして欲しいと呼びかけている。

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  4−4 火葬温度

 火葬炉の温度は800℃〜1,200℃。多くは1,100℃で設定されているが、故人の筋肉のつき具合、体格によって温度を調節している。漁師のような筋肉質の人もしくは肥満の人の場合、炉内は高温になる。火葬炉の燃料は一人あたり約45リットル。
 
※左上黄色字が炉内の設定温度

 また、火葬炉の中で柩を載せる分厚い石板の上にそれ自身を火焔の衝撃から守るために「霊砂」と呼ばれる砂を1kg上に撒く。

※霊砂(この砂が炉板を保護する)
 
※火葬場内の遺体用保冷庫

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  5−1 痘瘡墓

 19世紀中ごろ痘瘡が蔓延したときに、多くの遺体が薦〔こも〕に巻かれて放置(安置というよりは放置)された。痘瘡で亡くなったために共同墓地に埋葬されるのを拒まれたのか、遺族が自粛したのだろう。現在はその場所は草が生い茂り、人影も見当たらない。「痘瘡大流行して千数百人の死亡者を出す惨事で未曾有の事で埋葬するにも人口の少ない当時島民の患者は約半を下り一家全滅の憂き目を見る者も少なくなかったこの時に風葬の禁令は発せられたけれども死人があまりに多くして墓所に之を運搬する人がないので数日屋内に放置してあるのを村の審議により漸く夫役を出して墓地に運ばせる様な有様で今の如く正式の葬儀を行ふ余裕なく棺も造られず家に所持せるひつの底板を取り除くひつなき家は筵や空俵に入れて葬式したという。」(『与論島郷土史』)

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  5−2 樹上葬

 昭和30年代には、樹上葬も残っていた。人目につかない岩場の木にひもをくくりつけ、その下に棺を支えていたのを見たという話はあるが、どういう作法でどういう意味合いでそうしたのか、はっきりしたことはわからない。神職や霊媒師が亡くなったときに多くとった葬送方法という説もある。

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  <まとめ>

 今回の取材を通して間違いなく言えることは、与論町の人々は皆、先祖を大切にしている、ということである。
 土葬・火葬について3世代(親・子・孫)の間で次のような異なる意見があった。
  ・親の世代:自分の身内も自分も土葬をしたい
  ・子の世代:自分の身内は土葬で、自分は火葬されたい。
  ・孫の世代:自分の身内も自分も火葬をしたい。
 これは、ある意味非常に大雑把な分類に過ぎず、全ての人々に言えるわけではないだろう。しかしながら、土葬は「後々、改葬(洗骨)しなければいけないので大変」という意見は等しい。それを、御先祖様にとっては非常に大切だと捉えるのか、遺された家族の負担を軽減する方が大切なのか。【親・子・孫】の世代交代を60年と考えるならば、火葬場の話がこの町で出てから、30年が経つ現在「土葬→火葬」というパラダイムシフトの中間地点にある。
 ひとつの文化が形を変えつつある。
 しかしながら、そこには変わらぬ先祖への崇拝と愛情が感じられてならない。

〔追記〕
 当取材に多大な協力をいただきました、与論町役場様・海圓寺様・昇龍苑様・与論十五夜踊り保存会様・サザンクロスセンター様・地元の方々には大変感謝いたしております。お忙しいなか懇切丁寧に私を迎え入れ、熱心にお話及び案内をしていただき、誠にありがとうございました。私にとっては、「目からウロコ」のようなお話が殆どでしたが、「御先祖を大切に」思っておられる皆様の温かい心に触れ、私自身も忘れかけていた何かを思い出すきっかけを与えられたような気がします。
 本当にありがとうございました。

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