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| 目 次 | ||||||||||||||||||||||||
| 序 論 | ||||||||||||||||||||||||
| 第一章 | 与論島とは | |||||||||||||||||||||||
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| 第二章 | 葬儀式の方法 | |||||||||||||||||||||||
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| 第三章 | 埋葬方法 | |||||||||||||||||||||||
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| <まとめ> | ||||||||||||||||||||||||
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日本のみならず、世界中で土葬から火葬への移行が推進されている。日本の火葬率は98パーセントを超えるほどになっている。全国市町村、どこに住んでいても車で1時間圏内に火葬場があるといっても過言ではない。 |
第一章 与論島とは |
1−1 位置・気候 |
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与論島は、北緯27度2分40秒・東経128度25分2秒に位置し、周囲23.65km、面積20.49
気候は温暖で、私が現地に行った1月10日も上着は要らず、昼間は半袖で歩けるほどであった。年間平均気温は、22℃〜24℃。年間降水量は、約1,650mm。 |
1−2 人口 |
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与論島の総人口は、6,043人(平成15年12月)。そのうち65歳以上の人とそうでない人との割合及び男女比は以下の通りである。
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第二章 葬儀式の方法 |
1−1 臨終 |
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病院で危篤状態になったり、余命宣告を受けた患者は、一旦自宅にもどって最期を迎える。というのも、亡くなった場所にその人の魂が宿る、といういわれがあるからだ。遺体安置室(霊安室)が無い病院が多い。交通事故や不慮の災難によって死亡した場合は、神官が死亡現場に出向き、そこで「大祓い」を行い、魂をヒモロギ(位牌)に移す。その後自宅に霊を呼び迎える。 水にお湯を入れ、ぬるま湯をつくり、近親者の男一人が体を支え、女二人で湯あみをさせる。掛けるときは、柄杓を逆さ手に持ち三度湯をかけ、あとは普通にかけながら浄める。鬚〔ひげ〕をそるのも始めは下より上へ逆に剃る。手足の爪や髪を切って白紙に包んでおき、後で棺の中に入れる。女性の場合は薄化粧を施す。 沐浴が終わったら、表座敷に畳を一枚敷き、その上に、新しい筵〔むしろ〕を逆さ(織り始めの処を足下にする)に敷く。筵は中程の糸を数個所切っておく。その上に、頭を表に向けて、沐浴をさせた三人で仰向けに寝かせる。北枕にすると伝わるが、家の建て方にもより必ずしも北枕にはこだわらず、頭を庭側に向けている。キヌ(白い衣)を着せ、前を糸で縫いとめ白い帯をさせる。左を上に両手を組ませ胸に置き、両膝を揃えて立てる。鼻や耳などに白布で栓をする。顔は新しい手拭いで覆う。そして最後に生前愛用の晴れ着を掛けておく。 故人は白い着物(グショウキパダ)を着るのが一般的である。それは多くの場合、親戚の女性の手によって糸尻を留めずに縫われたものを使う。今では、平時に自分自身で用意したり、親が年老いたら嫁が用意したりしている。男にはキヌとサナギ(メーチュウとも言う。褌〔ふんどし〕)を女には白衣とカハン(腰巻)を着させる。手甲・脚袢は無く、足袋のみを着け、わらじは納棺する。わらじには鼻緒を付けない。襟の背側には、御霊が通れるように切り込みを入れる。故人の体には、7枚程のタオルを添える。それらを体全体に巻きつけることもあれば、頭だけ少し覆うこともあり使用方法はさまざまである。 死者の周囲に屏風または蚊帳を張る。先祖の霊前には幕を張り、幕には家族の晴れ着を打ち掛けて置く。 枕元に小机を設えて、花(ガジマルの小枝一本)、水、酒を供え、線香(蝋燭)を点す。また生前に愛好していた物などを供える。 故人の食事は、白飯、汁、酒、小皿一枚に味噌と塩を盛る(酢の物を盛るところもある)。ご飯には箸を立てる。あるいは半紙を対角線上で折って山型にして茶碗の縁に巻くところもある。箸を立てるのは、精霊がこの箸を通って現世に影現し食事を共にするという意味である。 弔問の人は、線香を立て、地域によっては盃に酒を注いだりしてお参りをする。 |
2−1 一般的な葬儀 |
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亡くなった日を1日目とすると、2日目に通夜、3日目に葬式という日程が多い。しかし、近親者が島外や海外にいて対面が困難な場合は、ドライアイス処置を遺体に施し、日延べすることもある。ドライアイスは普段は常備しているわけではなく、地元のジュース店が島外から取り寄せることが多い。
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2−2 仏式風神葬祭 |
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葬儀は、簡単にいうと「仏式風神式」である。神鏡(位牌)を安置して、時花、線香、ご飯、水、茶湯等を供えて柏手を打って礼拝する。 |
2−3 儀式の内容 |
| 【通夜】 | 夏は19:00、冬場は18:00開始が多い。約1時間を要する。通夜は神官なしで行われることが多い。 通夜が終わると、特に通夜振る舞いはない。缶ジュースに簡単なお菓子を口に入れる程度。夜中、近親者は交代で起きて夜伽をし、故人とともにいる。線香は絶やさない。 |
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| 【告別式】 |
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【式次第】 |
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使われる玉串は、大阪では榊が用いられるが、与論では榊が生息せず入手が困難なため、ガジュマルで代用されることが多い。 |
2−4 納棺後の出棺 |
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納棺は式中にする。タオルで口・鼻・両目・両耳を堅く縛り、男性4人で筵のまま入れる。縛るときは、女性の場合は真上で縛り、男性は真上を左に少しずらして縛る。これには、男性はあの世に行ってからも働かなければならない、という言い伝えからきている。納棺品は昭和20年代前後から、酒を2合瓶2本。1本はあの世で出迎えてくれる親族や友人用。1本は先祖へのお土産用。しかし、火葬する際は、それらを事前に柩から取り除いておくことが必要になる。最近では、献花を千切って入れることも多いが、火葬した骨が着色されることがあるので、入れすぎには注意を要している。昔は納棺時、故人の足を立てて爪を切って畳を2枚重ねてその上で行うという習慣があった地域もある。 |
2−5 葬儀費用の支払い |
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葬儀代金の支払い過程が興味深い。施主は、親族の最も信頼できる者に、葬儀にかかるであろうと思われる費用を事前に預け、発注や管理をその者に任せる。葬式が終わると、帳面と領収書を持って施主のもとに行き、お金を返す。そのとき、「使い果たしましたよ!」という言葉をかける、という習わしがある。実際には、残金があるのだが、必ずそういう言葉をかけるのだそうだ。そこには、「2度とこの(人の死に関することで使う)ようなお金の使い方をしませんように。」という願いが込められている。 |
3−1 法要 |
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葬儀後の法要は、3日まつり・10日まつり・20日まつり・30日まつり・40日まつり・50日まつり・100日まつりと呼ばれ、近親者だけで営まれる。そのうち10日まつりと30日まつりは100名くらいもの親戚が集まることがあるという。 |
第三章 埋葬方法 |
1−1 風葬 |
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風葬は、古事記や日本書紀などでも登場する日本古来の葬法である。明治初期までは、与論島でも一般的であった。遺体を人目につかない岩場の風葬墓に3〜6年安置して白骨化してから洗骨をしていた。洗骨した後、風葬墓の一番奥に頭蓋骨を納め、入り口付近にそれ以外の骨を瓶に納めて置く。 |
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※風葬墓は人目につきにくい岩場にある |
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| ※風葬墓の中には先祖代々の遺骨が積まれている |
2−1 風葬から土葬へ |
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風葬から埋葬への移行を必要としたのは、衛生上の問題が大きい。近辺には死臭が立ち込めることも少なくなかった。 |
| 明治11年 | 風葬⇒埋葬 | 県から命令 |
| 明治35年 | 風葬⇒埋葬 | 県警から強制命令 |
| 昭和30年 | この頃が風葬の最後 | |
2−2 葬儀当日の土葬 |
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火葬場ができてからは、火葬した遺骨を骨壷に入れてそれを「納骨堂」に埋蔵(埋葬ではない)するのが一般的である。ここでいう「納骨堂」とは、墓埋法でいうところの納骨堂ではなく、各家の墓石の下に設けた遺骨安置用のスペースのことをいう。 土葬場所(墓地)は砂地である。埋めやすく掘り返しやすいからだという。 |
2−3 改葬(洗骨) |
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与論島の墓は海周辺の砂地にある。それは、景観の良さもさることながら、墓は「掘りやすく、埋めやすい」のが必要条件だからである。
改葬の前日には通夜のような儀式があり、親戚が集まる。 改葬をすることを「タマにする」、という表現を使う人もいる。玉(喜びの象徴)とか魂から来ているようだが、実際は定かではない。沖縄や奄美の葬送儀礼で、当初風葬や埋葬をしておいて、ある期間の年月を経過して、遺骨を取り出して拭いたり洗ったりして、浄めてから改めて納め直すことを、「改葬」もしくは「洗骨」と呼んでいる。一般的に沖縄では「洗骨」といい、奄美では「改葬」という。ところが与論島では同じ行事を「ヲゥガン」と言い習わす。「ヲゥガン」とは「拝する」ことである。「改葬」は葬法を表し、「洗骨」は行為に関して使われている言葉である。それに対して「ヲゥガン」というのは、精神に重きを置いて使われている言葉である。そこで、「ヲゥガン」は先祖崇拝の理念の具現された行為であり、遺骨を故人の霊体とみなして、身近に接し拝することである。そして「洗骨」は、ヲゥガンの為の前方便である。このことから与論島の先人達は、近隣の島々よりも、先祖に対する追慕の念が厚く、また、日頃の生活の中でも、常に先祖と身近に関わりあっていたことを物語る。 |
3−1 土葬から火葬へ |
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昭和48年11月、与論町役場によって全世帯へのアンケートが行われた。
約30年前からも、火葬場の利用を求める人が多かったことが伺える。しかしながら、何故30年間火葬場が建てられなかったのか。それは、「火葬場は欲しいけど、自分の家の近所には建てて欲しくない」という住民感情があったからである。最近できた火葬場近辺にも、約10世帯の民家がある。そういった住民感情は少なからずあったに違いないだろうが、比較的協力的だったという。 ●与論島の土葬と火葬件数の推移●
●与論の火葬率の推移●
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4−1 新しい火葬場(昇龍苑)の概要 |
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敷地面積7,351 |
4−2 火葬受付 |
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火葬場の予約は、与論町役場町民生活課で受付される。島内の利用者については死亡届時に火葬許可申請及び火葬場使用申請をする。火葬場使用許可申請書のフォームで、他地域と異なるのは、書き込まれる故人氏名の欄が7人分もあるということだ。つまり、異なる人を複数同時に焼くケースがあるということだ。これは、改葬骨を焼くためである。
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4−3 出棺後 |
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出棺後、故人と遺族が火葬場に入場してくると、火葬場職員が所定の位置まで故人を運び、神官(喪主がやってもよい)が「火葬祝詞」をあげ線香を炊く。ここにも、神仏習合の名残が垣間見える。2礼2拍手1礼の後、喪主もしくはそれに準ずる者が火葬炉の「点火ボタン」を押す。ゴーッという音とともに、火は瞬く間に螺旋状に棺を囲い込む。 火葬場ができた当初は、葬式後、幾百人もの会葬者全員が火葬場におしかけたことがあった。町では、火葬場へ来る参列者はなるべく30人くらいまでにして欲しいと呼びかけている。 |
4−4 火葬温度 |
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火葬炉の温度は800℃〜1,200℃。多くは1,100℃で設定されているが、故人の筋肉のつき具合、体格によって温度を調節している。漁師のような筋肉質の人もしくは肥満の人の場合、炉内は高温になる。火葬炉の燃料は一人あたり約45リットル。 また、火葬炉の中で柩を載せる分厚い石板の上にそれ自身を火焔の衝撃から守るために「霊砂」と呼ばれる砂を1kg上に撒く。
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5−1 痘瘡墓 |
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19世紀中ごろ痘瘡が蔓延したときに、多くの遺体が薦〔こも〕に巻かれて放置(安置というよりは放置)された。痘瘡で亡くなったために共同墓地に埋葬されるのを拒まれたのか、遺族が自粛したのだろう。現在はその場所は草が生い茂り、人影も見当たらない。「痘瘡大流行して千数百人の死亡者を出す惨事で未曾有の事で埋葬するにも人口の少ない当時島民の患者は約半を下り一家全滅の憂き目を見る者も少なくなかったこの時に風葬の禁令は発せられたけれども死人があまりに多くして墓所に之を運搬する人がないので数日屋内に放置してあるのを村の審議により漸く夫役を出して墓地に運ばせる様な有様で今の如く正式の葬儀を行ふ余裕なく棺も造られず家に所持せるひつの底板を取り除くひつなき家は筵や空俵に入れて葬式したという。」(『与論島郷土史』) |
5−2 樹上葬 |
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昭和30年代には、樹上葬も残っていた。人目につかない岩場の木にひもをくくりつけ、その下に棺を支えていたのを見たという話はあるが、どういう作法でどういう意味合いでそうしたのか、はっきりしたことはわからない。神職や霊媒師が亡くなったときに多くとった葬送方法という説もある。 |
<まとめ> |
今回の取材を通して間違いなく言えることは、与論町の人々は皆、先祖を大切にしている、ということである。 〔追記〕 |