仏 教 と 葬 儀

(古代〜鎌倉編)

公益社 西寺尾営業所
谷 古 宇 浩 子


 目 次
序 論  
第一章 仏教伝来以前の葬送儀礼
 
1. 原始時代の葬送
2. 縄文時代の葬送儀礼
3. 弥生時代の葬送儀礼
4. 古墳時代の葬送儀礼
5. 『記紀』に見る葬送儀礼
第二章 日本人の死生観
 
1. 上代日本人の他界観
2. 上代日本人の霊魂観
3. 原始仏教の他界観・霊魂観
第三章 仏教伝来と葬儀
 
1. 仏教伝来
2. 聖徳太子と仏教
3. 南都六宗
4. 日本初の仏教の葬儀
第四章 平安期の仏教と葬送儀礼について
 
1. 平安仏教の諸相
2. 平安期の葬儀
第五章 鎌倉期の仏教と葬送儀礼について
 
1. 鎌倉期の仏教の諸相
2. 「上人」と「聖」 ―葬儀との関わりを中心に―
3. 鎌倉期の葬儀
<まとめ>  



序論
 現在、仏教の僧侶の主な役割は葬儀と祖先供養であるといっても過言ではない。しかし、いわゆる「原始仏教」と呼ばれる釈迦在世時の仏教は、葬儀を重視していなかった筈である。
 また、現代における仏式の葬儀は形骸化しているといっても過言ではなく、僧侶の行う「葬儀式」が何を意味し、何のために行われているのか分からず、僧侶の読経をやはり意味が理解出来ないまま聞いているといった姿が多く見受けられる。
 こうした、仏式の葬儀における僧侶と檀信徒との断絶は仏教会でも近年問題になっており、曹洞宗や浄土宗といった既成仏教教団や、日本宗教学会などでは仏教と葬儀に関するシンポジウムが開かれ、また、宗教学者の山折哲雄氏、佐々木宏幹氏らが警鐘を鳴らしている。
 しかし、仏教の「葬儀式」つまり葬送の儀式は、現代において、一般の檀信徒にとっては難解で、場合によっては無意味に思えるものになっているが、死者を「あの世」へ送りに出す、もしくは死者を成仏させるといった重要な意味、役割を担っているものである。
 そこで、仏教者がどのようにして葬送儀礼に関わるようになっていったのか、また、なぜ今日「葬式仏教」と呼ばれる状況に至ったのかを考察していきたい。
 次に、研究方法であるが、今回、研究課題について「仏教と葬儀」という大きな枠を設けた理由は、研究内容が特定の宗派、特定の学説に偏ることを避けるためである。
 そこで、仏教が伝来する以前と以後との日本の葬送儀礼について追い、仏教が日本の葬送に入り込んでいく経緯を追った。
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第一章 仏教伝来以前の葬送儀礼
1.原始時代の葬送
 考古学者の山下秀樹氏によれば、「400万年を超える長い人類史の中でも、人間が自分たちの死体を一定の手順を経て葬るようになったのは比較的新しく、せいぜい10万年を遡るかどうかというところ」であり、人間の歴史からすれば、比較的新しい文化であるとされている。
 10万年の年月を古いとするか新しいとするかはともかくとして、原始時代の葬送を探るには、埋葬地の発掘・研究を頼る他はない。ここで問題とされるのは、遺跡として残るのはあくまで「埋葬」という形をとられた場合に限定されるというところである。つまり、風葬・樹上葬などの形式が取られた埋葬法の場合、そこが人が葬られた場所であるという痕跡が残らないのである。ただし、当時の葬法を解明する手段を考察することが目的ではないので、ここでは資料として発表されているものに触れるだけにする。

 所謂「原始時代」で葬送(墓制)について言及できるのは、ネアンデアルタール人など、3.5万年を遡る中期旧石器時代以降である。
 中期旧石器時代における埋葬地(墓)の発掘・研究によると、当時の傾向として、屈葬が多く、副葬品の形跡が見られる。
 それよりも時代を下った後期旧石器時代の墓においては、前時代よりも明瞭な墓壙とふんだんな副葬品を伴って人骨が発見されるようになり、意図的な埋葬が行われたことが明確に分かっている。
 以上に述べたことは、全世界で行われている発掘・研究から導き出された傾向であり、同時代の日本に関しては、墓の可能性が考えられている遺跡はわずかに4例だけである。それぞれに、石器、玉類、海産物などの副葬品を伴っている。
 しかし、発掘調査の実施頻度に対して、埋葬地の発掘件数が極端に少ないため、「副葬品を伴った」「意図的な埋葬」は限られた社会的地位(呪術的役割を負うものなど)を持つ者に対して行われ、それも、個人レベルで単発的に行われた可能性が高いとされている。
 つまり、日本の旧石器時代においては、地域・民族など、広義なレベルで葬送儀礼が行われていたとは考え難いようである。

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2. 縄文時代の葬送儀礼

 縄文時代の葬法に関しても、遺跡に関する研究が根拠となるため、埋葬形式をとられたケースしか考察することが出来ない。
 縄文早・前期の埋葬形態は伸展葬もあるが、その中心は屈葬である。屈葬については、死者を母体内の姿勢に帰すためとする説や、死者の復活を恐れて屈げて葬る等の呪術説が主張されているが、一方では小さい墓穴ですむという実用説も唱えられている。
 このように、縄文時代の墓制についてはある程度明らかになっているが、その葬送儀礼的なものは殆ど不明である。ただ、土器・石斧・石棒等の副葬品、人骨のそばで火を焚いた跡や焼灰が出土しており、墓前で何らかの儀式が行われた可能性があるとされている。
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3. 弥生時代の葬送儀礼
 当時の葬送に関する記述は、『魏志』倭人伝に見ることが出来る。『魏志』倭人伝は三世紀後半の日本のことを記したとされている。

 其の死には棺有るも槨無く、土を封じて冢を作る。始め死するや停喪十余日、時に当たりて肉を食わず、喪主哭泣(こくきゅう)し、他人就いて歌舞飲酒す。已に葬れば、家を挙げて水中に詣りて澡浴(そうよく)し、以て練浴の如くす。其の行来・渡海、中国に詣るには、恒に一人をして頭を梳らず、き虱(きしつ)を去らず、衣服垢汚す。肉を食わず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。名づけて持衰(じさい)と為す

 とある。これによると、人が死ぬと十余日間喪主は哭泣し、他の人は死者の周りで歌舞飲酒する。そして死体は棺に納め、塚を作り、埋葬が終わると家族は皆沐浴するとなっている。

 また、弥生時代の墓地の遺構の発掘調査によると、岡山県吉備地方の墳丘墓では大型の壺とそれをのせる大型の特殊器台が出土しており、これら祭祀用の道具が墓前での葬送儀礼に用いられたと考えられている。また、畿内の方形周溝墓からは供献土器が出土しており、同じく墓前祭祀とも考えられるが、土器はほとんど全てにわたって人工的に壊したと思われる部分がある。これについては死者が生前使用していた土器を、霊魂の依り代となり得ない状態にして、廃棄したものではないかとの説もある。

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4. 古墳時代の葬送儀礼
 三世紀後半より所謂「古墳時代」と呼ばれる、巨大な墳墓が造営された時代に入る。この古墳時代は前期(五世紀前半まで)と後期(五世紀後半〜七世紀末)に分かれ、石室の構造・副葬品などに大きな違いが見られる。
 前期の古墳においては竪穴式の石室が主流であり、基本的に一体のみの埋葬であった。また副葬品は呪術的要素の濃い玉・鏡等が殆どであり、円筒形埴輪が並べられていた。
 これに対し、後期の古墳では、横穴式石室が主流となり、副葬品についても馬具・甲冑・太刀・冠・装身具・食器などとともに、家型・動物・人物等の形をした埴輪が立てられるようになる。
 埴輪がなぜ立てられたのかについては、「殉死代用説」「葬送儀礼再現説」「死後の世界表現説」などがある。
 中でも、「葬送儀礼再現説」は死者の復活を願い、復活の見込みがないと、遺骸に悪霊が入り込まないように守る「殯」を誠心誠意行ったことを表現しているとする説と、死者の死を認め、新たな主人への忠誠を誓う儀式である「誄」を「殯」とともに表現しているとする説がある。
 ただ、この説については、動物や、狩猟場面を表現する埴輪も見られるため、当てはまらない部分もあるようである。しかし、当時、『古事記』や『日本書紀』に見られる「殯」や「誄」の儀式が行われていたことを示唆している可能性があるとすれば、興味深い。
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5.『記紀』にみる葬送儀礼
 『古事記』、『日本書紀』は、多分に神話的要素を含んでおり、その記述の全てを史実として捉えるには無理があるが、古代の日本の様子・出来事を窺い知るにはなくてはならない史料である。

 日本神話において最初に死・もしくは死後の世界が登場するのは、『古事記』における伊邪那美命が迦具土神を産んだことにより、死亡したとされることについての記述である。この神話に関しては、伊邪那美命の夫、伊邪那岐命が伊邪那美命を追って死後の世界へ行くという部分がよく知られているが、葬儀に関しては比婆山に埋葬したとしか記されていない。ただし、伊邪那岐命が亡骸の周りを匍匐し廻って泣いたことが記されており、また、同じく『古事記』の倭建命(やまと たけるのみこと)の薨去条にも匍匐し廻って泣くという記述が見られるため、一種の葬送における風習であったとする見方もある。補足するならば、前述の『魏志』倭人伝の記述にもあった「喪主哭泣(こくきゅう)し」にも通ずる部分があると考えられる。
 また、『記紀』に記録が残されている古代の葬送儀礼において「喪屋」と「殯」が挙げられる。これらに関する最古の資料は、天稚彦葬儀の記事(「神代記」の「便ち喪屋を造りて、殯す」)である。ここにおける「殯」と「喪屋」とは何であろうか。
 民俗学者の吉野 裕子氏は「モガリ」という言葉に関して、「モガリ」の意味は、「モ」=「ム」(身)=「ミ」の古形。「カリ」=古語「離れ・カレ」を連想させる。ということで、「モガリ」=「身離れ」つまり、魂が身体から離れる事象を表していると推察している。そうなると、「殯」が行われる「喪屋」は、魂が身体から離れる、とされるまでの一定期間を過ごす場所であると考えられる。
 しかし、民俗学者の土井 卓治氏によれば、「日本人は古来から霊魂と肉体の存在を別物として認識していた点を指摘し、「霊魂が肉体から出たり入ったりすることが可能であるとの考えから仮死、死と魂の関係が理解されたことは当然である」としている。この考え方に照らし合わせても、「殯」が単に「身体から魂が離れる」だけの儀式でなく、死者の「死」が、仮死の状態なのか、本当の死の状態なのかを見極める期間であるとも考えられるのである。

 また、同じく『古事記』における記述に


 まづ人の死にたるは、彼の天照大御神の天の石屋に隠坐して、世の闇夜になれりしに類たる故に、其時の故事をまねびて、歌楽て其人を復此の世に還りたまへと、招祷る意より起れり、その鎮魂祭の儀にも彼の故事をまねぶ儀にてさとるべし。

 とあり、死者の復活を希求して歌舞をするのが、喪屋・殯宮の目的であったと考えて差し障りないと思われる。
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第二章 日本人の死生観
 この章では、「葬儀」を語る上で避けることのできない「死」について、つまり、日本人が「死」をどのように捉えてきたのか、また、日本人が仏教の影響を受ける以前(と考えられる時代)の死生観、仏教の死生観について考察していきたい。
1. 上代日本人の他界観
 1−1 黄泉
 死後の世界を表す言葉として「黄泉の国」という表現が使われることがあるが、これは、日本の古代における死後の世界を示す呼称であったようである。
 『古事記』において「黄泉の国」の記述が見られるのは、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)の国生みの項において、伊邪那美命が火具土神を出産し、死亡したという部分においてである。こうして、伊邪那美命は黄泉の国へ行ってしまい、妻を亡くしたいざ伊邪那岐命は悲しみのあまり、伊邪那美命に会うために、黄泉の国へと行くのだが、変わり果てた妻の姿を見て驚き、恐怖のあまり逃げ出す。

 この黄泉の世界とは、『古事記』によれば、


「其の黄泉の坂に塞(さや)りし石は、道反之大神(ちかへしのおおかみ)と号(なづ)け、亦塞ります黄泉戸大神(よみどのおおかみ)とも謂(い)ふ。故、其の謂はゆる黄泉比良坂(よもつひらさか)は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂ふ」

 とあり、この世とは「黄泉比良坂」という坂で繋がっており、坂は大きな石で塞がれているということである。

 『出雲国風土記』においては、「黄泉の穴と呼ばれる洞窟があり、夢にこの洞窟を見ると死亡する」という記述がある。この場合、「黄泉」死後に行く場所という表現ではないが、やはり死に関わる言葉であることに変わりはない。

 『古事記』の全訳注などの著作がある古典学者、西郷信綱氏によると、黄泉の国の「ヨミ」とは、「ヤミ=闇」の母音交換形とするのが古典文法的にも正しく、また、イザナギ・イザナミのエピソードにおいてもイザナギが黄泉の国を訪れた際に、「一つ火燭(とも)て」中に入ったとされているため、黄泉の国は「ヤミ」の中の暗い世界であったさまが読み取れると主張している。

 1−2 山中他界
 前出の伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)のエピソードは『古事記』、『日本書紀』ともに記されている。しかし、『古事記』においては、伊邪那美命は出雲の「山」に葬られたとされているが、『日本書紀』においては

「イザナミノ尊、火の神を生みたまひし時に灼かえて神去りましき。故(かれ)、紀伊の国の熊野の有馬村に葬(おさ)めまつりき。」

とあり、紀州熊野に葬られたとされていることがわかる。古代日本では葬地は死後の世界の入り口であり、すなわち他界であると理解されていたと言われる。
 また、同じく『日本書紀』において、少彦名神(すくなひこなのかみ)が大国主命との協力事業の半ばにして常世の郷に去るというエピソードにおいては

「少彦名神(すくなひこなのかみ)、熊野の御崎に至りて、遂に常世の郷にいでましき」

とある。この「常世」とは、他界を示す言葉である。
 これらのことから、『日本書紀』は、紀州熊野を他界と見なしていたと考えられ、また、前出の『古事記』においては「山」(出雲)が他界であると設定されていた。いずれにせよ、「山」は他界であるといった認識が古代日本人の中に根付いていたと考えられる。

 また、こうした感覚は時代が下って、天台・真言の両本山が山中に建立されたり、鎌倉期に入り阿弥陀信仰が流行した際に、「山越阿弥陀図」などが盛んに作られた、また、山岳修行を専らとする修験道の出現などに受け継がれたと私は考える。つまり、古くから山を他界と考える日本人の山中他界観が仏教に影響をもたらしたと考えるのである。

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2.上代日本人の霊魂観
 古代日本における葬送(埋葬)に関していえば、死者が埋葬された場合、体を折り曲げられた、所謂「屈葬」の形式を取ることが殆どであることが分かっている。これについては、墓穴を掘る際の労力を少なくするためである、とか、胎児の姿になぞらえたためである、といった説も唱えられているが、屈葬された遺体の手足に縛られた形跡や、石を抱かされていた場合には、別の意味合いが見出されてくる。すなわち、「故人の霊が遺体を抜け出して戻ってこないようにする」といったような説である。また、古墳時代には、古墳に葬られた死者には夥しい副葬品とともに、人や動物・家などを象った埴輪もともに埋葬された。これに関しても諸説あるが、死者が死後も生前と同じような暮らしを営むために行われたといった考え方もされている。
 つまり、古代より日本人は「霊魂と肉体は別々である」という感覚を持っていたと考えられる。
 そして、現在も「故人の茶碗を割る」や、「火葬場からの往路と復路を違う道を使う」など、やはり故人の霊が戻ってこないようにするということを強く意識されたと思われる習俗が各地に残っていること考えると、故人の霊は古来から、人が死亡した直後は畏怖の対象になっていたようである。
 しかし、そこから然るべき過程を経て、故人の霊は祖霊となり、氏神となっていく。つまり、故人の霊から「恐ろしい」性格が抜け、故人の家族を守護する「神」へと昇華されるのである。その過程の考察については、今後に譲る。
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3.原始仏教の他界観・霊魂観
 3−1 原始仏教における他界
 仏教とは文字通りに解釈すれば、仏の教えという意味を持つ。しかし、釈迦が悟りを得た教えの内容は、日本に至るまでにインドの在来宗教の影響を受け、中国に渡って中国の儒教・道教といった思想の影響を受けている。それ故日本に達するまでにかなり変容している。また、さらに日本に入り、日本の神祇思想、民間信仰などと結びつき、日本独特の教義を持つようになるのであるが、そもそも、釈迦の在世当時の仏教は、他界・霊魂をどのように捉えていたのであろうか。
 ・輪廻転生
 インドに古来から伝わるバラモン教(現在はヒンドゥー教)は、民俗宗教であると共に、インドに暮らす人々の階層を位置付ける生活規範である。そのバラモン教の根底にあるのは、輪廻転生の思想である。
 輪廻とは、人の死後、霊魂が月に至り、雨となり、地上に雨として降って食物となり、精子になり、母胎に入って再生するという五つの段階を取って霊魂が再生するということを説き、再生する際の形態は前世の業によって規定され、清らかな行いをした者は、バラモン・王族・庶民の階級に生まれ、醜い行いをした者は、犬・豚・賎民の胎に宿るとされるものである。(『ヴェーダ・ウパニシャッド』より)
 つまりインドの人々は、「死後は次の世界に生まれ変わり、次の生活を送るということと、次に生まれ変わる場所は、現在の行いが反映される」という価値観を持っているのである。

 しかし釈迦は、人がこの世に生まれてくること自体を「苦」であると考えた。すなわち、生まれてくることにより、老いの苦しみがあり、病に冒される苦しみがあり、やがて死を迎える苦しみがあるのであるから、必ず老→病→死の苦しみを作り出す原因となる「生」自体を苦であると悟ったのである。
 そこで釈迦は、この延々と繰り返される生→老→病→死→生の連鎖=輪廻の輪から抜け出す(解脱する)ことこそが、苦しみから解き放たれる唯一の道であると提言したのである。
 つまり、釈迦は輪廻の思想を前提として「解脱」を説いたのであるから、釈迦の中には輪廻に伴う他界(=後世)が認識されていたと考えられる。

 3−2 西方極楽浄土
 仏教が己が悟ることを主たる目的とした教義から、時代が下って一般の人々(衆生)の救済をもその大きな目的とするようになる。これを大乗仏教と呼ぶが、この大乗仏教において、釈迦のほかにも如来(悟りを得た者)が説かれるようになった。阿弥陀如来、薬師如来などである。そしてそれぞれの如来はそれぞれの浄土に住むとされ、その中でも、西方極楽浄土に住むとされる阿弥陀如来は衆生救済を如来となるための大きな条件とし、如来となるからには、全ての衆生を救済し、西方極楽浄土に往生させ、阿弥陀如来の説法を聞いた上で成仏(悟りを得る)させるということを誓った。ここに、「極楽浄土」という他界が出現したのである。
 この往生極楽思想が日本に渡り、死者の霊の行き場所の一つに加えられていくのである。
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第三章 仏教伝来と葬儀
1.仏教伝来
 日本に仏教が公式に伝来したのは、諸説あるが、大きく分けて538(欽明7)年説と552(欽名13)年説の二説が主流となっている。552年説は『日本書紀』を典拠とし、538年説は『上宮聖徳法王帝説』を典拠とする。
 しかし、552年説については、『日本書紀』の仏教伝来部分の執筆を担当したといわれている大安寺僧道慈の創作である可能性が先学によって指摘されている。このようなことから、仏教の公伝は538年説が有力であると考えられている。
 伝来当初の仏教は、崇仏派と排仏派によって受容の如何が争われ、崇仏派である蘇我氏が排仏派である物部氏を滅ぼし、日本における仏教の興隆の基盤が築かれた。
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2.聖徳太子と仏教
 日本仏教における聖徳太子(574〜622)の果たした役割は大変重要だといえる。蘇我氏の血を引く聖徳太子は、推古帝(593〜628)の代に皇太子となり、社会的な地位も影響も大きい中で、高麗僧慧慈に仏教を学んだ。
 その仏教の理解度は深く、『勝曼経』、『法華経』などの注釈書を述し、また、仏教の教えを生かした「十七条の憲法」を制定したことはよく知られている。
 また、四天王寺や、法隆寺、中宮寺など、寺院建立も盛んに行った。四天王寺の建立については、国家を外敵から守るため、四天王に「もし、戦いに勝った暁には寺院を建立し、四天王を奉る」という誓願を立て、勝利したために建立したという縁起があり、太子が仏教を学問的に研究した反面、国家鎮護のために信仰したという一面も見ることが出来る。太子が没したのは推古29(622)年のことである。遺体は土葬に付されたが、太子の死を知った高麗僧は僧衆を集めて斎会を行った。
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3.南都六宗
 奈良期には、中国から次々に様々な教学が伝来する。三論宗、法相宗、成実宗、倶舎宗、華厳宗、律宗であるが、これを「南都六宗」と呼ぶ。これらの宗はそれぞれ研究する教学を表すもので、学派的な意味合いが強い。例えば、三論宗の「三論」とは、中論、百論、十二問論の三つの論を研究する学派であり、華厳宗は『華厳経』を研究する学派である。
 このように、伝来当初の仏教はその主な目的を教義研究に置いていた。つまり、この時点では、葬儀を重要な活動としていなかったことが分かる。
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4.日本における仏教の葬儀
 ・道昭の火葬
 日本における仏教の葬法=火葬が行われたのは、元興寺僧道昭(629〜700)が最初であると言われている。
 道昭は白雉四(653)年に入唐し、玄奘三蔵に従って法相宗を学んだ。法相宗とは、この世のものは全て、自分自身の存在も含めて意識のはたらきによって認識されたものであり、「一切が識(認識)のみである」ということ(これを唯識説と呼ぶ)を説く、『成唯識論』を中心に研究する学派である。また、唯識説は禅定体験(座禅)によって唯識を体験できると考えられ、インドにおいては禅定の実践者=瑜伽行(ヨーガ)派によって伝承されたため、座禅とも深いかかわりを持ち、道昭も中国において座禅を学んだとされる。
 道昭は遺言に自分の死後、遺体を火葬するようにと明言したため、弟子たちによって火葬に付された。この道昭の火葬が日本における最初の火葬であるとする説もあるが、これより前の遺構に火葬の跡が発見されており、現在では否定されている。ただし、日本における仏教に則った火葬に関する文献資料としては最古のものであるため、重要であることに変わりはないであろう。
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第四章 平安期の仏教と葬送儀礼について
1. 平安仏教の諸相
 平安時代は桓武天皇の平安遷都(延暦十三(794)年)より始まる。仏教界においては、奈良期に僧道鏡が政治に深く関係し、政治を牛耳ろうと画策したため、追放されたという一件の後、光仁朝(770〜781)において僧侶の堕落の粛清、寺院経営の改革などが行われ、桓武朝ではこれがさらに推し進められた。平安遷都の際には、遷都以前の都に建立された寺院はそのままにされ、移されることが無かった。これは、道鏡のように僧侶が再び政に深く関わることを避け、仏教界の一新を図るためでもあった。
 平安京においては、左右両京を鎮護するため、東寺と西寺が建立されたことに象徴されるように、仏教は奈良期に引き続き国家鎮護を大きな役割として負っていたのである。
 また、平安期には伝教大師最澄(766〜822)・弘法大師空海(774〜835)により真言密教が持ち込まれ、祈祷を主とする仏教の鎮護国家的性格を強化した。さらに、真言の加持祈祷は個人の病気平癒や災難の除去、招福のためにも行なわれるようになった。このことから、仏教は国家のための宗教から、個人の要求にも応える宗教へとその裾野を広げていった。
 また、平安末期には戦・動乱が相次ぎ、更に度重なる飢饉にも襲われたこともあり、末法思想と呼ばれる思想が流行した。末法思想とは、釈迦の没後に釈迦の教えが形のみ残る時代とされる「像法」の時代を経て、教えの形すらもなくなってしまう時代(末法)が今現在であるとする考え方である。末法思想が流行することで、当時の人々は現世に対して絶望感・来世に対する期待と不安を抱くようになったといわれている。
 こうした不安に応えるべく、空也(903〜972)らが京の市井に念仏を説いてまわり、念仏が流行した。念仏は前述の最澄が天台の修法の一つとして日本に持ち帰った行法であり、比叡山に念仏修行をする堂も建てられていた。
 また、天台僧源信(942〜1017)が著した『往生要集』は、当時の死生観に大きな影響を与えたといわれている。『往生要集』の趣旨は極楽往生を実現するために、念仏の重要性を説くところにある。つまり、念仏を行じ、一心に阿弥陀仏を信じれば極楽に往生し、救われることが説かれている。また、この世界が極楽浄土に対して「穢土」(汚れた場所)とし、穢土を地獄・餓飢・畜生・阿修羅・人・天の六道に分けて説かれているが、この中で特に地獄の描写は凄惨を極め、それまで漠然と捉えられていた「黄泉の国」が一転、死後の世界に対する恐怖を人々に抱かせた。この『往生要集』に説かれる浄土と穢土は、先に述べた「末法思想」の流行による現世への閉塞感と相俟って、人々が死後、地獄その他の穢土へ落ちないために仏教に縋るという風潮が高まったと考えられる。
 こうした思想背景を伴って、平安末期には浄土教が知識層を中心に流行した。源信の説く極楽往生の要因には阿弥陀の縁の他に、自己の性質や往生を願う心の強さなど、個人の資質を重視する傾向があったため、上流貴族達は功徳を積むために熱心に仏教建築や仏像などを建立した。藤原道長の法性寺(1022)や藤原頼通の宇治平等院(1105)などが代表として挙げられる。これに対し、建築・造像などを行う経済力のない人々は念仏を唱えるといった図式が成立した。
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2.平安期の葬儀
 2−1 天皇の葬儀
 ・光孝天皇の葬儀
 寛平二年の光孝天皇の葬儀では、山陵(天皇の墓地)に「仏法を興すため」に精舎を建立し、これを「聖霊に回向する」という記述が『類聚三代格』に見られるため、(「近為荘厳山陵、遠為興仏法、建立精舎於山陵、奉廻白業於聖霊廻向之志」)多分に仏教を意識した、葬送儀礼であったと考えられる。

 ・醍醐天皇の葬送
 延長八(930)年九月二十九日に没した醍醐天皇の葬儀は十月一日の納棺を経て、十月十日に行われた。この際、醍醐天皇は山城国宇治郡山科陵おいて土葬に付された。
 前述したが、仏教の葬儀とは何かを考えるに当たり、火葬がその条件の一つと考えられると述べたが、この醍醐天皇の葬儀は土葬である。しかし、棺を陵に納める前に陵の上に黄幡を立てるという儀式を執り行ったのは勢祐法師であり、埋葬後に醍醐・勧修寺の僧侶に陵の前で念仏するべきことが命じられ、埋葬日の二日後の十二日に山陵に卒都(塔)婆三本が立てられた、といったようなことから、醍醐天皇の一連の葬送儀礼に関しては、十分に仏教的な色合いを持っていたと言っても過言ではない。
 また、醍醐天皇の葬儀は後日の先例となったとされているため、この後の皇族の葬儀においても醍醐天皇の葬儀の形式に則った形で行われたと思われる。
 2−2 平安貴族の葬送
 貴族の葬儀に関する記録によると、その大半において火葬が行われていることが分かっており、仏式の葬送儀礼が行われていた可能性が高いと考えられる。
 中には実際に葬儀に僧侶が登場する記述が残されているケースもある。例えば、『西宮記』の関白太政大臣従一位藤原忠平の葬儀(天暦三(947)年)によると、「忠平は八月十四日に死亡し、八月十五日に亡骸を法性寺に移し、入棺したのち、霊柩車(牛車)に載せて延暦寺へ運び、八月十八日に延暦寺にて葬儀を執り行った」ということが記されている。忠平の納棺が行われた場所が法性寺とされているが、前述の藤原道長が建立した浄土教に関係する寺院と同名であることから、道長の法性寺の前身であるか、別の寺院であったとしても浄土教に関わりを持つ寺院である可能性が考えられる。
 2−3庶民の葬儀
 平安期の一般民衆の葬儀について知る術はほとんど無く、仏教との関わりはもとより、葬送儀礼自体も行われていたかすら明らかではない。
 ただ、『日本紀略』に伊勢斎王が鴨川で禊をするときに葬送の火を見たという記述があり(「又禊所前野有火、遣人見之、葬送火也」)、このことから国立歴史民俗博物館の水藤真氏は「庶民が葬送を行っていた一端は知られる」とされている。
 しかし、古代・中世において庶民が道路や溝に死体を遺棄してはならないという法令が何度も出されており、このことは死体遺棄を禁止する法令を作って取り締まる必要があるほど、しばしば行われていたということを裏付けると考えられる。これは経済的に葬送が出来ない人々が行ったと一般的に考えられているが、飢饉や疫病が流行した時などは、死骸が市中に溢れるほどに遺棄されることもあったようである。
 例えば、「自正月至十二月、天下疫死者尤盛、(中略)死者過半五位已上六十余人也、道路置死骸」(『百錬抄』)(正月より十二月に至るまで、天下に疫病の死者は尤も盛んなり。死者の過半は五位以上の六十余人なり。道路に死骸を置く)「始自去冬至ここに于今年七月、天下疫死大盛、道路死骸不知其数」(『日本紀略』)(去年の冬より始まり、ここに今年の七月に至る。天下の疫病、大いに盛んなり。道路の死骸その数を知らず)
 2−4 仏式の葬儀の意義
 平安期の葬儀の事例として天皇・貴族の葬儀の歴史資料における記述を挙げたが、仏式で営まれたものについて限定すれば、なぜ仏式で行われたのか、仏式にする意義はどのようなものだったのか、といった課題が残った。
 当時、浄土往生思想に伴う念仏が流行したことは先述の通りであるが、当時の念仏は、法然以降、現在まで行われている「南無阿弥陀仏」と口に出して唱える「称名念仏」とは異なり、阿弥陀仏の姿を心に出来るだけ仔細に渡って何度も描く「観念の念仏」であったため、一般の人々には行ずることが難しかった。このような要素もあって、天皇・貴族層においては現世においては来世に功徳があるとされた寺院の建立などに心血を注ぎ、現状における不満・来世に対する不安を僧侶の祈祷をもって解消し、来世に直結する死の場面=葬送の場においては特に僧侶の介在を必要としたのではないかと私は考える。つまり、当時の仏教者は死者を含めた衆生と仏教の世界との橋渡し役を担っていたのではないだろうか。
 以上のことから、当時の仏式の葬儀は死者を堕地獄から救い、極楽往生へ導くといった意義があった可能性が考えられる。
 いずれにせよ、この時代に人々の葬儀を仏教者が執り行う基盤が確立されたと考えられるであろう。こうして仏教は、古代より肉体と霊魂を別の存在として考える霊魂観を持った日本人の祖先崇拝に結びついていったのである。
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第五章 鎌倉期の仏教と葬送儀礼について
1.鎌倉期の仏教の諸相
 鎌倉期は日本における仏教の一大変革期であるといわれている。これまで追ってきたように、天皇・貴族の宗教であった仏教が、武士や民間に広く行き渡ったのもこの時代である。また、それまで朝廷の行事を取り仕切り、また貴族の現世利益的な要求に答えていた官僧と呼ばれる僧侶が中心であった仏教界に「聖」や「上人」などと呼ばれる新しいスタイルの僧侶が出現するようになり、民衆の支持を集めたといった特徴が挙げられる。
 歴史の教科書などでよく用いられる「鎌倉新仏教」という用語は、法然・親鸞の浄土教、日蓮の日蓮宗などを指すが、これらは、それぞれの宗派の祖師たちが数ある経典・論書の中から自分の典拠となる教えを選び出し、自らの信仰を明らかにし、それを人々に説いていくといった点で、鎌倉期に成立した全く新しい仏教であると言える。こうした仏教が成立した背景には、平安期末から流行していた「末法思想」(前述)が大きく影響したと考えられている。仏の教えを見失い、迷っている末法の衆生を救うべく、民衆にも理解しやすい仏教が生まれたといえるであろう。
 また一方で、こうした新しい仏教に触発される形で奈良期に興った南都六宗の一部が活性化され、「本来の仏教」の姿を取り戻すべく活動した僧侶も出現した。例を挙げると、法相宗の教学復興に尽力した明恵や、戒律復興を目指した覚盛、叡尊(1201〜1290)などである。こうした動きを総合して考えると、鎌倉期は奈良・平安期を通じて形骸化した仏教を危惧した仏教者たちが「仏教の正しい教え」と、自らを含む衆生を救済する道を模索した時代であると言ってよいのではないだろうか。
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2.「上人」と「聖」 −葬儀とのかかわりを中心に−
 2−1 官僧の世界
 奈良期に興った南都六宗、また、平安期に興った天台・真言の二宗は、国家鎮護をその大きな役割とし、その生活・運営費は朝廷によって賄われ、出家者の人数も天皇が決めていた。つまり、これらの仏教者は「官僧」と呼ばれ、今で言うなれば、国家公務員のような立場にあったといえる。これに対し、鎌倉期に成立した仏教の祖師達、つまり法然、日蓮、叡尊らは「聖」「上人」といった、「官僧」の枠から外れる僧侶に当たる。彼らは、一度官僧として出家した後、別所に入るなどして、仏道修行に励んだ。このように、官僧の世界から離れて修行を重ねることを当時の史料では「隠遁」や「遁世」と呼んでいる。もともと、出家すること自体が「隠遁」であり、「遁世」なのであるが、あえてこの語が使用されていたということは、すなわち官僧の世界が権力と結びつき、世俗化していたことを裏付けているといえる。山形大学の松尾剛次氏はこの「遁世」の語に着目し、当時の僧侶を「官僧」と「遁世僧」に分類している。
 この「官僧」は、先ほども述べたように、国家鎮護の法要などを主に行っており、天皇に仕えることを第一義としていたため、当時の天皇・貴族同様、「穢れ」を避ける必要があった。例えば、葬儀に関わった場合は「穢れ」の中でも最もタブーとされる「死穢」に直接に関わったとされたため、一定の期間は国家鎮護の法要や、公の場に出席することを控えなければならない、などの種々の制約があったのである。
 これに対し、鎌倉期の祖師たちの中には、官僧の枠から外れた立場にあることから、積極的に葬儀を始めとする「穢れ」に関わっていった者もいた。つまり、死の穢れを恐れず、死者を弔い、読経によって悪霊を鎮め、死者の追善供養などを行なった。また、当時の実質的な権力者であった武士階級は、戦とは切り離せない=死と無縁でいることが出来ない立場にあったため、鎌倉期に新たに成立した仏教を歓迎し、深く信仰するようになっていった。
 2−2 「上人」「聖」と葬儀
 ・念仏僧の場合
 念仏の流行は、浄土宗の開祖法然房源空(1133〜1212)が『撰択本願念仏集』を著し、称名念仏を確立したことに始まる。これは前述の『往生要集』(源信著)に説かれる「観念の念仏」とはまた異なる。法然は比叡山出身の僧侶であるが、僧兵が跋扈する当時の叡山の状況を憂い、遁世して、叡山の別所・南都などで仏法の研究を重ね、四十三歳にして中国の浄土僧善導の『観無量寿経疏』に出会い、浄土宗に回心した。
 称名念仏は文字通り阿弥陀仏の名を一心に唱える行為を指している。この誰でも行うことが出来る簡単な行を行うことで極楽往生を保証するということは、出家し、師から仏法を授けられる機会を持つ者、もしくは厳しい修行を積んだ者の力を借りないと成仏することが出来ないとされていた従来の特権的な仏教への強烈なアンチテーゼであると言えよう。このような性質を持つ称名念仏は民衆に瞬く間に広まり、これを危惧した既成仏教教団や、国家権力から幾度となく弾圧を受けるほどであった。
 念仏と葬儀のかかわりについては、当時、念仏は人々の臨終の際に近親者によって唱えられおり、また、念仏が死後の極楽往生を願うことを主旨としていることからも、念仏は死と密着しているものであったといえるだろう。
 また、『捨石集』などの説話集には、念仏僧が家族を亡くして嘆き悲しんでいる子供や女性の願いに応えて死者を弔うといった説話が多く残されていることから、念仏僧が葬送儀礼に関わっていたことが推察される。

 ・律僧の場合
 鎌倉期において念仏僧と並んで葬送との関わりが深いのは、先にあげた叡尊を祖師とする西大寺系律宗教団である。比叡山出身の叡尊は戒律が軽視され、堕落した仏教界に見切りをつけ、覚盛らとともに改めて受戒し、「遁世」を果たした後には、弟子たちとともに大和西大寺に拠点を置き、斎戒衆と呼ばれる在家信者などを統括し、畿内の一大勢力となった。また、その弟子忍性は鎌倉に下向し、北条氏などの時の権力者と結びつき、鎌倉でも大規模に活動した教団である。葬送に際しては、火葬・拾骨などの遺体処理の部分を在家信者である斎戒衆らが担当し、祭祀の部分を出家者(僧侶)が担当したと言われている。
 また、遺体供養の一種である「光明真言」を大きく取り上げ、頻繁に光明真言の法要を行ったことも功績として挙げられるだろう。この光明真言とは、弘法大師空海によって日本に持ち込まれたものである。具体的には、「オン アボギャ ベイロシャノウ マカボダラ マニハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」という真言を唱えて土砂を加持し、遺体に振り掛けるというものである。これにより、故人の前世・今世での罪業が取り払われるとされており、死者の来世での安心を保証する目的をもつ供養であると言えるだろう。

 ・禅僧の場合
 禅宗というと、現代の日本仏教においては臨済宗・曹洞宗・黄檗宗が挙げられるが、鎌倉期の日本で成立したのは、臨済宗・曹洞宗の二宗である。もっとも、禅自体は飛鳥時代に法相僧道昭によってすでに持ち込まれており、奈良期には大安寺道慈が、平安期には伝教大師最澄がそれぞれ当時の中国の禅を日本に伝えたのであるが、流行することはなかった。
 日本に本格的な禅宗が伝えられたのは明庵千光国師栄西(1121〜1203)が入宋して臨済禅を伝え、臨済宗を開宗したことに始まると一般的には言われている。しかし栄西の臨済宗は禅の実践・密教の実践・教学研究を兼ねる流派であったこともあり、鎌倉に招かれてからは主に密教の修法を行った。
 禅僧が葬儀に関わっていったきっかけについては、密教を修する者の神秘的な力によって死後の安泰を裏付ける効果が期待されたことではないかと思われる。また、先述のように栄西が臨済宗を開宗したものの、将軍家からは密教の修法を要求されていたことから推察すると、当時、病気や臨終の際には密教の祈祷が有効とされていたことも影響していると思われる。つまり、禅宗伝来当初は禅僧に対して禅そのものより密教者としての活動が求められたのではないだろうか。その後、禅の理解が深まってから蘭渓道隆(1213〜1278)、無学祖元(1226〜1286)らによって純粋な禅が導入され、今日の禅宗の原型が築かれたものと思われる。
 禅僧が行った葬儀については次の段落でも述べるが、鎌倉期においては、曹洞宗の葬儀の記録は残されておらず、臨済僧が庶民だけでなく、室町幕府の将軍を始めとする武士階級や天皇の葬儀を行っており、『愚管記』には禅宗式の葬儀のことを「禅宗之沙汰」とあり、禅宗の様式が確立するほど一般化していたことが伺える。

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3.鎌倉期の葬儀
 3−1 貴族の葬儀
 鎌倉期の貴族においては平安期と同様、仏式の葬儀が行われていたようである。
 ・『明月記』にみる葬儀
 藤原定家の『明月記』には、父俊成の葬儀に関して、病を発した俊成が法性寺に移り、人々の唱える念仏を聞きながら亡くなる様子が描かれており、臨終時には念仏などが行われていたことが見て取れる。
 俊成の納棺は湯灌の後に行われた。納棺にあたっては籠僧四人が遺体の下に敷かれている筵ごと棺に納め、用意された衣が着せ掛けられ、紙で作られた梵字などが共に納められ、梵字を書いた紙で覆われた後に蓋がかぶせられた。このことから、納棺の時点で仏教者が介在していたことが分かる。
 さらに、葬儀後には四十九日まで七日ごとの法要が行われ、死後七十日目には海慧僧都という僧侶を招き、仏像、仏画、定家自筆の法華経などの開眼供養が行われている。
 ・『師守記』にみる葬儀
 中原師守の『師守記』にも父師右の葬儀についての記述が残されている。師右が亡くなったのは、康永四年(1345)二月六日であるが、二月九日には仏事に使われる日仏、七体仏の仏画を絵師に発注している。また、初七日から死後二十七日目までは毎日読経・仏供養を行い、三十五日には家中の人々が写経、四十九日には墓参・僧衆を招いて墓前での読経・念仏が行われている。
 これら二つの記録は、平安期を経て、鎌倉期には貴族層に仏式の葬儀が定着していたことを窺わせる。今日まで受け継がれている納棺の原型や、法要の様子が詳しく描かれており、興味深い。
 3−2 武士の葬儀
 ・北条義時の葬儀
 執権北条義時が没したのは元仁元年(1224)のことである。義時の臨終の様子は『吾妻鏡』に記されているが、臨終の前日から弥陀の宝号が間断なく唱えられ、印を結び、念仏を唱えながら亡くなった。これは『師守記』の師右の臨終の様子と酷似しており、死と極楽往生を結びつける考え方が貴族のみならず武士階級にも浸透しつつあったことがわかる。
 また、四十九日までの間に七日ごとの仏事も行われている。

 ・北条時宗の葬儀
 執権北条時宗は禅宗に対する信仰が深く、その葬儀に関する史料は、日本における禅宗の在家者に対する葬儀の最も古い記録にあたるとされている。臨済宗仏光寺派の祖師である無学祖元の語録には時宗の葬儀に関して「檀那法光寺殿(時宗)落髪」や、「付衣」などの記述が見られる。「落髪」とは、髪を剃ること、「付衣」は衣を付すことであり、出家することを意味する表現である。また、「起龕」(火葬に出発する際に念誦文を読むこと)も行われており、禅宗式つまり、出家者に対する葬儀法が用いられたようである。

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<まとめ>
 以上、原始・古代から鎌倉期までの葬送儀礼について簡単に追った。まず、弥生時代以前の時代に関しては、文献資料も残されておらず、本文中でも述べたが、埋葬された場合のみしかうかがい知ることが出来ない。しかし、モガリ、モヤに関する部分については、日本人の霊魂観にも直結しており、釈迦の当時の原始仏教がその存在を認めていない「霊」「魂」といった観念が、「祖霊」・「先祖代々の霊」などとして、仏教儀礼と融合し、今日まで面々と受け継がれているその根幹の部分になっていると思われ、非常に興味深く感じた。
 次に、奈良期・平安期・鎌倉期の仏教と葬儀についてであるが、奈良期では天皇の葬儀にのみ従事していた仏教僧が、貴族層の葬儀にも関わるようになり、仏教寺院で葬儀が行われていたことが分かった。
 また平安期に入ると、葬儀形式は分からないながらも、一般民衆も何らかの葬送儀礼を行っていた可能性があることが分かった。
 鎌倉期には、それまで主流であった官僧の仏教への反発から新しい仏教が発生し、新しい仏教の祖師たちは、官僧が忌避した死の穢れをものともせず、葬送儀礼・死者供養を行っていたことを述べた。
 平安期・鎌倉期の葬儀については、事例として天皇・貴族の葬儀の歴史資料における記述を挙げたが、仏式で営まれたものについては、なぜ仏式で行われたのか、仏式にする意義はどのようなものだったのか、といった疑問が残る。これを明らかにするということは、当時の人々が仏教者に何を求めていたのかということを浮き彫りにする作業でもある。
 一つの手がかりとしては、当時流行した世界観である末法思想と、前述の源信の『往生要集』のもたらした影響が考えられる。つまり、先に述べた「末法思想」の流行による現世への閉塞感と、『往生要集』に描かれた凄惨な地獄の姿に来世への不安・恐怖を抱いた人々が死後、地獄その他の穢土へ墜ちないため、また、地獄と対照的な極楽浄土に往生するために仏教に縋るという風潮が高まったと考えられる。
 また、『往生要集』以前に既に根付いていた天台・真言の密教の祈祷によって現状における不満・不安を解消し、更に来世に直結する死の場面=葬送の場においては特に僧侶の介在を必要としたのではないかと私は考える。つまり、当時の仏教者は死者を含めた衆生と仏教の世界との橋渡し役を担っていたのではないだろうか。
 以上のことから、当時の仏式の葬儀は死にゆく者とその周辺の者を死後の世界に対する不安から救い、死後の安心を保証するといった「心の救済」的な意義があった可能性が考えられる。
 また、日本における仏教の葬儀を追うにあたり、仏教伝来以前の日本人の他界観・霊魂観、仏教の他界観・霊魂観についても簡単に考察した。
 仏教以前の葬送儀礼については、第一章「仏教伝来以前の葬送儀礼」を参考にしていただきたいが、傾向として、死者の復活を願い、復活がかなわないと分かると、葬るという経過を辿ったようである。そして、葬られた死者の霊は恐れられ、遺族の元に戻ってこないように(他界へ行くように)願われたのである。
 これが仏式の葬儀になると、決定的に目的が変質していることが分かった。つまり、死者の霊がホトケ(もしくは仏弟子)となる、もしくは浄土へ往生することを目的としており、このことからは、死者の霊の行き場所が前述の「黄泉の国」から仏の世界へ転換しただけでなく、死者を見送る者が、死者の死後の安心を願う意識を持つようになったと思われるのである。これはまさに「供養」の心であり、「供養」された死者の霊魂は、もはやさ迷い歩くこともなく、ましてやイザナミノミコトの様に黄泉の国で朽ち果てることもなく、「ホトケ」となって、子孫から敬われる存在になり得たのである。
 しかし、現在の「あの世」のイメージが「人は死ぬと雲の上の空に行く」と漠然と思われているのはなぜであろうか。前述のように、日本古来から使われてきた「あの世」を表現する言葉である「黄泉の国」は、地下・もしくは暗い洞窟の中であるとされていたはずである。一方で、浄土教が流行した時期に盛んに描かれた『阿弥陀来迎図』などを見ると、阿弥陀仏・もしくはその脇侍たちは雲に乗って死者を迎えに来ている。また、極楽浄土には「飛天が音楽を奏でながら飛び交う」描写もあり、「あの世」が暗い地底から明るい雲の上に転換した一因を浄土思想に見ることも出来るのではないかと私は考える。
 さらに、昨今とみに弔辞や喪主挨拶で使われる「天国に行く」という表現も、「天国」自体はキリスト教の用語ではあるが、キリスト教的な意味は極めて薄い、死者の霊が辿り着く「雲の上のあの世」の新しい表現であると私は考える。
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〈参考文献〉
『原始・古代日本の墓制』 山岸良二(同成社)
『日本喪服史【古代篇】−葬送儀礼と装い−』 増田美子(源流社)
『日本人の死生観』 吉野裕子(人文書院)
『古代人と死 −大地・葬り・魂・王権−』 西郷信綱(平凡社)
『日本人の生死観』 吉野裕子(青史社)
『日本人の他界観』 久野昭(吉川弘文館)
『日本人の霊魂観』 山折哲雄(河出書房新社)
『日本宗教文化の構造と祖型』 山折哲雄(青土社)
『神道と日本仏教』 渡部真弓(ぺりかん社)
『葬式仏教』 圭室諦成(大法輪閣)
『神と仏と日本人』 佐々木宏幹(吉川弘文館)
『〈ほとけ〉と力』 佐々木宏幹(吉川弘文館)
『葬送と墓の民俗』 土井卓治(岩田書院)
『死と境界の中世史』 細川涼一(洋泉社)
『救済の思想』 松尾剛次(角川選書)
『勧進と破戒の中世』 松尾剛次(吉川弘文館)
『中世の葬送と墓制』 水藤真(吉川弘文館)
『生と死の日本思想−現代の死生観と中世仏教の思想−』 佐々木馨(トランスビュー)

〈参考論文〉
「曹洞宗教団における葬祭史−瑩山禅師の周辺まで−」 伊藤良久(曹洞宗総合研究センター「修学研究紀要」第十四号)

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