葬儀には様々な段階がある。
死者と別れると共に新しい関係を築く「悲しむ営み」であり、
それがゆるやかな段階を伴う癒しのプロセスである。
四年前ドイツで生活していたときに一人の学生と交わした短い会話が忘れられません。ある日彼女が、「日本ではどのようにして亡くなった人を思い出し、記念するのか」と聞いてきました。詳しく尋ねてみると、彼女は連続して三人の親しい人を亡くしたのですが、葬儀が終わってしまうとその亡くなった人を思い出したり、その人たちについて誰かと話す機会がなかったというのです。人が死に、葬儀を出せばすべてが終わったというわけではありません。彼女と亡くなった人との関係は残っているのです。彼女は何かのきっかけに亡くなった父親のことを突然思い出し、一週間ほどその悲しみが彼女を支配し、彼女の力を奪ってしまったというのです。彼女は突然の打ちひしがれた状況にどのように対処すればいいのか分からず、ただ時が過ぎていくのを待つしかないというのです。
彼女が求めていたのは亡くなった人を意識的に思い起こし、悲しみを人々と共有できる時であり、場でありました。逆に言うならば、無秩序な想起とそれに伴う悲しみからの解放です。しかし、自分一人で亡くなった人について考えることはあっても、誰かと共にその人のことを思い出したり、その人について語る時と場がドイツの社会の中には機能していないのです。もちろん、ドイツ人には死者を想起する気持ちや必要が全くないということではなく、キリスト教を中心とする地域共同体や家族の中で、自然とそのような相互的なケアがなされていたのであろうと思われます。しかしながら人々の生活が核家族化、個人化し、地域共同体のつながりが希薄になっていった現代社会において、そうしたお互いが配慮しあったり、悲しみを表現し、それを共感しあう共同体内のシステムが機能しなくなっていったのです。
日本にはまだかろうじて死者を記念するシステムが残っています。日本の様々な死者儀礼は非常に複雑で緊張に満ちています。他の通過儀礼と比べても、葬儀には様々な段階があります。四十九日のような風習は生物的な死と、人格的な交わりとしての死者との別れとの時間的なずれを感じさせるものです。死者に食べ物を供えたり、死者に向かって生きている人に対するように語りかけるのも日本人が生から死への移り変わりをゆるやかな変化として捉えていることを表しています(新谷尚紀『死と人生の民俗学』)。そのような死者との関わりは、死者への執着ということではなく、死者と別れると共に新しい関係を築く「悲しむ営み」であり、それがゆるやかな段階を伴う癒しのプロセスであると理解できるのではないでしょうか。
しかしながら、日本もドイツと同じような傾向にあることも否定できません。死を弔い、遺族を慰めるはずのシステムもその内実が理解されず、悪しき儀礼化が進んでいます。「金」と「もの」が前面に出てきます。葬儀が遺族にとっても煩わしいものとなり、儀式の簡略化、スピード化が進んでいるように思います。核家族化、地域共同体の崩壊も相俟って、日本人も悲しむ時と場を失い、ただ煩わしい風習と孤独な悲しみだけが残っているのではないでしょうか。
ドイツの墓地
葬儀を一つの風習として見るだけではなく、「悲しむ営み」を助ける役割を持つことを強く認識しなければなりません。死者儀礼を通して、人は死者と別れていく、しかも徐々にその儀式のプロセスの中で別れが行われていきます。また、別れだけに終わってしまうのではなく、一つの区切りがつけられることによって、死別を経験した人々に死者との新しい関係と新しい人生への出発を促すものとなります。そして、そこに集まった人々とのつながりが強められていきます。内実の伴った儀礼は、その儀礼そのものが人を癒す力を持っているいえます。
このような観点から、もう一度葬儀をとらえなおす必要があるのではないでしょうか。そのためには葬儀の精神的支柱を担ってきた宗教が今一度自らの役割を認識しなおさなければなりません。キリスト教の立場から言うならば、キリスト教はアメリカやヨーロッパ文化を背景に持つ宗教として、日本的な心情やゆっくりとした死の受け止め方を否定的に扱ってきました。死者を記念することにも消極的でありました。キリスト教は日本文化との対話を通して、どのように遺族の魂を配慮し、「悲しむ営み」に寄り添っていくことが出来るかを考えなければなりません。他の宗教も自らの死者儀礼を再吟味し、それぞれの教えに基づいて葬儀の真の内実化を求めていく必要があるのではないでしょうか。さもなければ、宗教は遺族に対して語るべき言葉も寄り添う力も失っていくでしょう。もちろん、そのような葬儀の内容を形にし、そこに集う人々がその内容を経験することが出来るように葬儀社との連携も必要不可欠です。またその逆に内実の伴わない死者儀礼は一つのイベントの演出となってしまい、それこそ無用の長物になりかねません。
死者との良い別れはわたしたちによい記憶を残してくれるものです。そしてそれには時と場、別れと悲しみを共に経験してくれる人が必要です。しかしながら、以前の人間関係や地域との関係に基づいた死者儀礼に戻っていくことは出来ないでしょう。「悲しむ営み」の時と場、そして人と人とにつながりを、現代の社会の中で再構築することがわたしたちの課題ではないでしょうか。
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