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 「喪中」という言葉は、現在では年賀状を遠慮するために年の暮れに出す年賀欠礼葉書で目にする程度となったが、喪中とはもともと死者を出した近親者が籠もっている状態をいった。近親者は死者が出ると通常の生活を送ることが出来ず、その関係に応じて忌み籠もったのである。
 特に死後まもない時は厳格な忌みを必要とされ、そうした状態を他の人々にも知らせるために「忌中」という紙を貼ったりする。これは現在でもよく行われている。地域によっては、竹で入り口をふさいだり、縄などを張る場合もあった。
 葬儀において、近親者は死者に寄り添って悲しみに浸るだけでなく、こうした忌み籠もりをすることも要求されているため、近所や親戚などの人々が実質的な葬儀の執行を担い、遺族はまったく口も出せないという慣習もあった。
 こうした喪に服している人が着るものが喪服であり、もとは喪主をはじめ喪に服する近親者が着るものであった。喪服のことを「イロ」という地域も多いが、これは未染色の白い素材を指す。民俗学者の柳田国男は、イロとは白の忌み言葉であったと述べている。江戸時代には、都市の町人などは白上下や白小袖を使用していたようで、「いろ屋」といいそれを貸し出す商売もあった。現在でも新潟県佐渡島では「イロキ」という言葉があり、これは親族など葬儀に参列する人のことをいう。これは喪服を着る人という意味であろう。

イロキの人数を記した佐渡のイロ帳
 ところで明治時代になると都市を中心に、葬儀で男性は紋服やフロックコート、ダークスーツなどの礼服が着られるようになる。一方、女性は白の喪服がしばらく着用されていた。都市部で女性が白い喪服から黒紋付の喪服になっていくのは、大正末から昭和にかけてと考えられる。
 例えば東京芝浦のある商家では、大正二年の葬儀の写真では女性が白い喪服を着ていたが、昭和の葬儀写真ではすでに女性全員が黒い喪服姿である。地方ではそれより遅く、第二次世界大戦中も白い喪服が多く着用されていたのが、いろいろな写真からうかがえる。晴れ着を葬儀に着ることもあり、派手な振り袖を着るという地域もあった。
   

白の喪服を着た葬儀 (古座町・昭和初期)

現在の忌中看板
 昭和になると、東京などでは男女とも現在のように黒の喪服が普及していった。これは、宮中において洋装化の影響から黒い洋服を喪服として採用したことが大きく影響していると考えられる。
 遺族が喪服を着る一方で、忌みを受けないその他近所の人々などは普段着、もしくは多少改まった服装で葬儀に参列したのであり、本来喪服を着ることはなかった。それは、近親者ではないため喪に服していないから当然のことでもあった。
 ところが男性が遺族以外も黒紋付やフロックコートなど礼服をつけるようになると、遺族の喪服と遺族以外との服装の区別がなくなり、葬式に参加するための服が喪服として捉えられるようになった。現在では、遺族も一般参列者も服喪との関係は薄くなり、葬儀に参列するためのユニフォームとして捉えられるようになったのである。

   
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