 |
慶応3年(1867)11月、坂本龍馬は京都河原町蛸薬師の近江屋に隠れているところを数人の刺客に襲われ、その波乱に満ちた人生を終えました。享年、33歳。希代の英雄・龍馬の死はほかの勤王志士たちに大きな衝撃を与えました。それもそのはず、龍馬は、これまで仇敵のごとくにらみ合っていた薩摩と長州の同盟を実現し、徳川幕府が朝廷に政権を返上する大政奉還のきっかけを作った人物。これからの日本の新しい国づくりにはなくてはならない存在だったからです。 |
 |
明治維新になるまで、龍馬暗殺は壬生の狼・新選組の仕業に違いないと考えられていました。しかし、新選組と同じく京都の治安維持に当たっていた元京都見廻組の今井信郎の証言によって、いまでは同組与頭だった佐々木只三郎ら七人が真犯人ではないかと推測されています。
勝海舟もその日記の中で、「…龍馬暗殺は佐々木只三郎や今井信郎などの輩が実行したものだが、(薩長同盟を快く思っていない)幕府目付の榎本対馬守あたりが命令したのだろう…」と書き残しています。 |
 |
いかに京都の治安が乱れていたとはいえ、龍馬は北辰一刀流の免許皆伝の腕前。自分自身も刺客に命を狙われていることは十分に知っていたはずです。それなのになぜ、あっさりと暗殺されてしまったのでしょうか。
こんなエピソードがあります。龍馬の友人が殿様からもらった名刀を自慢していると、龍馬は懐からおもむろにピストルを取り出して「刀で戦う時代は終わった」と放言。別の日、その友人が「俺もピストルを手に入れた」と言うと、龍馬は万国公法という法律書を取りだして「これからの時代は法律を勉強すべきだ」と一喝したというのです。
龍馬の慧眼ぶりを示す逸話ですが、龍馬とともに殉難した中岡慎太郎(二日後に絶命)が、「刀を手元に置いておかなかったのは一生の不覚だった…」と述べているように、龍馬の心のどこかに油断があったとしか考えられません。しかも、京都寺田屋で伏見町奉行所に襲われたときに、危機を救ってくれたピストルを持っていなかったようです。
歴史に「もしも」はありませんが、もし龍馬がもう少し長生きをしてくれていたなら、明治の日本の歴史は大きく塗り替えられていたに違いありません。 |