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1542(天文11)年〜1616(元和2)年 関ヶ原合戦で石田三成らを破り、
征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開いた。
大坂の陣で豊臣氏を滅ぼして幕府の基礎を固めた後、75歳で病没。
参考文献:『徳川三代』二木謙一監修(NHK出版)
戦国乱世に終止符を打ち、260余年にわたる天下泰平の世の礎を築いた徳川家康。
その75年の生涯は、後世の私たちの心をとらえて離さないドラマティックなものでした。今回は、歴史の表舞台には登場しない家康の葬儀に関わるユニークなエピソードを紹介します。
 元和2(1616)年4月17日午前、稀代の驍将(ぎょうしょう)徳川家康は、波乱に富んだ75歳の生涯を閉じました。好物だった鯛の天ぷらを食べ過ぎたのが死因といわれていますが、実際には胃の持病が悪化したようです。当時は人生50年といわれた時代。2代将軍秀忠が54歳、3代将軍家光が48歳で亡くなっていることからも、家康がいかに長寿だったかが分かります。
 「自分が死んだら遺体は久能山に埋葬し、1周忌が過ぎたら日光山に小堂を建てて勧請すること。自分は関八州の鎮守となるだろう――」。これは家康が死の2週間前に側近に残した遺言です。駿河湾に面して屹立する久能山は、武田信玄の築いた城塞が残る要害堅固の地。死に臨んでなお、子孫の繁栄を願う家康の胸中やいかばかりだったでしょうか。
 家康の亡骸は雨天の中、その日のうちに粛々と久能山に埋葬されましたが、菩提寺増上寺での葬儀はついに執り行われませんでした。実はこれは、家康を「神君」へと導く壮大なプロローグだったのです。
 元和3年2月8日、家康の遺命に従って久能山から日光山への遷座が実行に移されました。改葬の様子を描いた江戸時代の絵巻物「御祭礼行列絵巻」には、家康の遺骨を乗せた絢爛豪華な神輿や太刀持、楽人のほか、神の遣いであるサルの着ぐるみを身につけた人が派手やかに行列する姿が描かれています。
 まさにこの霊遷行列こそ、人間・家康を偉大なる東照大権現に昇華させる儀式であり、諸大名に徳川幕府の威光を知らしめるデモンストレーションでもあったのです。3代将軍家光は日光東照宮をさらに壮麗な社殿に造り替え、自らも慈眼堂の傍らにひっそりと眠っています。
 「人の一生は重荷を追うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず…」。信長、秀吉の陰で隠忍自重を迫られ、60歳を過ぎてようやく天下を手中に収めた徳川家康。その含蓄ある人生訓は400年後の私たちにも学ぶべき点が多いようです。
 

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