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葬礼談義 Interview
香山リカさん+吉田武
田辺聖子さん・藤本義一さん+播島幹長
佐藤喜宣さん+吉田武
犬童一心さん+中西通
公益社創業70周年記念対談 藤本義一さん+播島幹長

 
株式会社公益社
代表取締役会長
作家
作家
播島 幹長  
田辺 聖子 さん
 
藤本 義一 さん
 大阪で生まれ育ち、死や生にまつわるエッセイや小説なども出版されている田辺聖子さんと藤本義一さん。40年来の友人というお二人に、その交友録や文壇の裏話などをお伺いするとともに、小説家としての視点から生と死、葬祭文化のあり方などについて、幅広く語っていただきました。

播島 お二人は古くからのご友人とお伺いしましたが、どのようなきっかけでお知り合いになられたんですか。
田辺 昭和33年に、「花狩」を初めて本にしてもらったとき、文芸大阪の審査員だった藤沢先生に紹介していただいて、毎日放送でラジオドラマの脚本を書かせてもらっていたんです。藤本さんとはそこで知り合いました。もう、40年以上のお付き合いになります。
藤本 僕は21歳のときに応募したラジオドラマが採用されて、放送作家として仕事をするようになったんです。一般の人が投稿してくる文章を7〜8分の短いドラマに直す仕事でしたが、三人が毎日交代で脚本を担当して目が回るような忙しさでした。田辺さんの声は聞こえてくるけれど、机の上に山のように積まれた脚本が壁となって、姿は見えなかったですね。
田辺 そうですね。あの当時の民放は華やぎがありましたね。大阪弁で脚本を書いたんですけど、主人公がお嬢さんの設定だったので、セリフをみんな標準語に変えられたのを覚えています(笑)。
播島 司馬遼太郎先生ともご懇意にされていたそうですね。何か思い出はありますか。
田辺 「花狩」の出版記念パーティーの発起人をしてくださったのが、当時、産経新聞の記者をしておられた司馬さんだったんです。とても気さくで、素敵な方だったですね。
藤本 司馬さんとは原作者と脚色者という間柄で、ずいぶん仕事でご一緒しました。「梟の城」なんかのラジオドラマも手がけたんですよ。
播島 田辺先生は昭和38年に「感傷旅行」で芥川賞を、藤本先生は昭和49年に「鬼の詩」で直木賞を受賞されましたね。お二人が作家を目指すようになったきっかけは何だったんですか。特に、田辺先生は小さい頃から「作家ごっこ」をするのが好きだったとお伺いしたのですが。
田辺 南洋一郎さんなんかの冒険小説が好きで、一人で空想の世界で遊んでいましたね。女の子のくせにって、よく言われましたけど。本は小さい頃から好きだったんですよ。
藤本 僕は、就職とか学生運動とか現実の世界から逃れたかった。その手段が小説だったというわけです。田辺さんが芥川賞の受賞記念でもらった時計をみんなに見せて、「今度は僕がもらうんや」と言って周囲をびっくりさせたこともありましたね。うちの親父に「もの書きになったんや」って報告したら、「そらええわ、元手なしや」と言われました(笑)。

播島 お二人は関西に住んでいらっしゃいますが、そのほかにも司馬遼太郎さんや庄野潤三さん、阪田寛夫さんなど、有名になってからも関西で活躍されている作家の方は多いですね。
藤本 そうですね。大阪の作家というのは、みんな個性的で、なんとも言えない表現力を持っています。会話なんかも大阪弁で書くと、標準語の4倍も豊かに表現できるんです。それに、関西では純文学よりも、もっと破天荒なストーリーが読者に受け入れられる。だから、僕みたいな直木賞作家は東京では活躍できないんですよ。
播島 北海道大学のある先生が、授業のカリキュラムの中に関西弁を取り入れたところ、受講希望者が殺到したそうです。つまり、関西弁というのは外国語だという発想です。これは非常に興味深い話だと思いますね。
田辺 関西では「おもしろ(い)」「きれ(い)」と、言葉を短く切って話しますよね。お客さんが市電の車掌さんに「この電車は〜に行きますか」と聞いたところ、車掌さんは「行きま」と答えたので、お客さんは「行きます」なのか「行きません」なのかさっぱり分からなかったという笑い話もあります。
藤本 「考えときま」というのは、関西ではノーサンキューの意味。てっきり考えてもらってると思って訪ねてみたら、意味が通じなかったということもあります。関西の人は、「考えていません」とははっきりと言えないんですね。これは一つの愛情表現ではあるけれど、相手にとってはずるいように映ってしまうんです。
播島 不快感を与えずに、婉曲にやんわりとお断りする。大阪では「ちょっとそこまで」というのは挨拶ですが、東京ではどこに行くのだと詰問されるかもしれませんね(笑)。
田辺 関西弁というのは、ぞんざいで粗末な言葉だと思われがちですが、実は京都弁から派生したとても丁寧な言葉なんです。否定しているのか肯定しているのかはっきりしない「あいまいさ」というのも、関西弁の一つの魅力と言えるのでしょうね。
播島 田辺先生も藤本先生も、ご自宅で阪神・淡路大震災を被災されたそうですが、そのときの様子はいかがでしたか。
田辺 停電だったので、ろうそくとマッチを探してきて、四十七士の討ち入りみたいな格好で家の中を確かめたところ、観音開きの戸棚が開いてガラスが全部割れていました。私は空襲の経験があるので、敵機が来るとみんなが声を掛け合って無事を確認するのですが、そのつもりで外に出たら、辺りが不気味なほど静まり返っていたのが印象的でした。
藤本 洋服ダンスが頭上わずか3cmのところをかすめて、いつも寝ている枕を突き破って倒れてきたんです。九死に一生を得ましたね。僕の孫はその後3年間、震災が起こった午前5時45分頃になるとびっくりして目が覚めるという状態が何度か続きました。

播島 阪神大震災では、当社の西宮山手会舘が震災で亡くなった方を安置する基地となり、全国から霊柩車が200台近く集まってご遺体をお納めしました。私もほとんど毎日のように、被災地に出向いておりましたが、震災が残した爪跡はあまりに大きかったようです。震災がきっかけとなって、死生観が変わったという方も多いのではないでしょうか。田辺先生は苦手な講演をされるようになったそうですね。
田辺 私はそれまで、もの書きは小説だけ書いていればいいと思っていたんです。でも、さまざまな都道府県のトラックが救援物資を積んで走っているのを見ていると、何かお役に立つことができないかと考えるようになりました。私が苦手なことでみなさんのお役に立てること、その答えが講演だったんです。
藤本 多くの人たちの寄付によって、震災で両親を失った子ども、子どもを失った両親のためのケアハウス「浜風の家」が芦屋に建てられました。いま、その中からとても素晴らしい人材が育っています。例えば、ある生徒がヨットレースに参加したのですが、そこで一人の参加者が事故で亡くなりました。ヨットレースから帰ってきたその生徒は、「命の大切さが分かった」と哲学者みたいなことを言う。不幸な出来事ではあったけれど、そうした悲しみを乗り越えて、彼は人間として大きく成長したんです。

播島 お二人が書かれたエッセイなどでは、老いや死というものが明るく表現されていますね。人間という生物が受け入れねばならない老いや死をどのようにお考えですか。
田辺 そうですね。私は「死」というのはひとつの生き方の形だと思います。昔は各家庭に仏壇があって、嘘をついたり隠しごとをしたりすると、仏壇の前に座らされて「まんまんちゃんが見てはるで」と怒られた。知らず知らずのうちに、死者の魂、精神が仏壇に宿っているという意識が培われていましたね。
藤本 確かにそうですね。両親が仏壇を拝んでいる姿をよく見かけたものです。いまはそんなことを教えてくれる人がいなくなった。もう一つ、日本人の宗教観が非常に多元的だと思いますね。国内の宗教法人の数は約22万にものぼります。これだけの規模を持っている職業団体はほかにはありません。
播島 多元的というよりも、一人ひとりが確固たる宗教観を持っていないのでしょうね。お正月には神社に詣で、お盆にはお寺に参り、クリスマスにはキリストを祝う、まさに日本人の宗教観を如実に表していると思います。
田辺 私たちが小さい頃は、夏はご神灯をともし、お正月は天神さんに参ったものです。子ども心ながら、前の晩から楽しみで眠れなかったですよね。現在は、日本人の生活が多様化したせいもあるのでしょうね。
播島 昨年1月、田辺先生のご主人の川野純夫さんがお亡くなりになり、私ども公益社が葬儀をお手伝いさせていただきました。藤本先生にも弔辞を読んでいただき、亡くなられた方にふさわしい温かみあふれる内容だったと思います。
田辺 葬儀では、故人が好きだった唱歌メドレーを公益社さんにお願いして会場に流してもらったんです。参列された方も「とっても良かったよ」とおっしゃっていました。この頃の葬儀はずいぶんすっきりとして、以前のものとはずいぶん趣も異なってきましたね。
播島 これからの葬儀というのは、一過性のスタイルを求めるのではなく、故人の思い出をできるだけ凝縮させていくということが大切だと思います。残された人たちに、「死」というのは決して終わりではなく、新たな場所へ行くんだという明るい気持ちにさせてあげる。葬儀の役割のひとつはそんなところにあるのではないでしょうか。
藤本 僕がいままで見た葬儀の中で一番印象に残っているのは、40人くらいの長老が柩の前に子どもたちを集めて、故人が生前どんなに良いことをしたのか順番に子どもたちに話して聞かせるんです。その間に地域の人たちがやぐらを建てて、故人を丁重に葬るわけです。このような葬儀は日本にはありませんね。
藤本義一 1933(昭和8)年大阪生まれ。大阪府立大学経済学部卒業後、宝塚映画に入社し「駅前シリーズ」などのシナリオ執筆を経て62(昭和37)年独立。74(昭和49)年「鬼の詩」で直木賞受賞。65(昭和40)〜90(平成2)年、テレビ番組「11PM」の大阪側司会者。作家、エッセイストとして活躍中。大阪の人情話、芸人物、商売物などを主なテーマに、主人公に同化することなく、つき離しながら軽妙なタッチで描き出す。
田辺聖子 1928(昭和3)年大阪生まれ。63(昭和38)年「感傷旅行(センチメンタル・ジャーニィ)」で芥川賞受賞。菊池寛賞、読売文学賞など受賞。00(平成12)年文化功労者となる。鋭い人間観察と高い知性をユーモアに包み、小説、評伝、随想など幅広い分野で活躍。古典文学への造けいも深く、「源氏物語」の口語訳をはじめ古典紹介などでも大きな成果を収めている。また、無類の宝塚ファン、スヌーピー好きとしても知られる。

播島幹長 1936(昭和11)年大阪生まれ。58(昭和33)年、同志社大学経済学部卒業。日興證券株式会社を経て、78(昭和53)年、株式会社公益社入社。98(平成10)年代表取締役社長、03(平成15)年同会長に就任、現在に至る。
播島 私たち葬祭事業を手がける者としましては、遺族の皆さんの気持ちやニーズを反映させながら、できるだけそれを的確に表現できるよう心がけていくつもりです。今後は、田辺先生、藤本先生からお伺いした貴重なご意見を参考にしながらプロデュースしていきたいと考えていますので、どうぞよろしくお願いいたします。本日はどうもありがとうございました。
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